2007年3月11日 (日)

タタミ運びの写真

先日、「障害者の働く場かんぱす」として、タタミの運搬&柔道会場セッティングの仕事を請けました。その時の写真を「飯山満小親父の会」の方よりいただきました。ありがとうございます。ちょっと掲載。

Dsc00727 これは柔道大会前夜にタタミを会場に運んで並べているところです。

遅い時間でしたが、みんな集中力を切らさず頑張ってますね。

Dsc00745 こちらの写真は並べ終わって記念撮影。

「親父の会」の人たちも混じっています。

Dsc00977 翌日、大会が終わって、またタタミの運搬。みんなお疲れ。そして「かんぱす」にご依頼くださった「親父の会」のみなさま、本当にありがとうございます。

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2007年1月 6日 (土)

「当然のこと」その2~最終回~

迷っていましたが、やはりこの記事を書くしかありません。

12月27日の夜、私は3歳の息子に「本当はサンタさんは親父でしょ?」と聞かれてしまったことは28日のブログで書きました。

http://kanpasu2004.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_de3e.html

実はその日の昼間、「かんぱす」「クローバー」合同の筑波山温泉日帰り旅行に行く時、私は車の中で板さんと「本当はサンタさんは誰なのか、子供たちが知ってしまったのはいつ?」ということについて、話をしていました。板さんについては12月11日のブログ「当然のこと」で書きました。

http://kanpasu2004.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_667b.html

12月27日、前日の豪雨と暴風が去り、あたかも「台風一過」であるかのような空気の澄みきったさわやかな朝。私は板さんを車に乗せ、車椅子のシンタロウを迎えに行くため、県道8号線を西に向かっていました。右前方には雪化粧の富士山が遠く鮮やかにそびえ立っています。

「やっぱり富士山はいいねえ。今日筑波山やめて富士山に行きたいね」と私。

「青木ヶ原っすか?」(笑)と板さん。「あそこは板さん一人で行ってよ(笑)」

「ところで友野さん、今年もサンタの大役は果たしたんですか?」と板さん。

「うん。兄弟喧嘩の種をまいてきちゃったみたいだけど、喜んでるみたいだよ。兄ちゃんにはラジコンカー」(私)。「もう風歌くんぐらいなら、ラジコンの操作もできるんですねえ」(板さん)。

「ところで板さんサンタは、子供にサンタの正体を話したのはいつ?」(私)「どうだったかなあ、一番上の子は確か小学校3年生ぐらいの時に、意を決して話したかなあ。でももう知ってるよって顔されたなあ。カミさんあたりがサッサとしゃべっちゃったんだろうなあ。あいつ、夢がないからさあ。」(板)

「奥さんがどうかは知らないけど、板さんの夢はいつもでかすぎるんだよ。でも俺も子供が小学校3年生になったら白状しようかな?」(私)。

(しかしその夜3歳の長男に「サンタは親父」と言われてしまった・・・。)

「子供たち4人に一番カネがかかる時だけ『お父さん、お父さん』で、それが終わったらお払い箱。男ってこんなもんっすかねえ。」(板さん)「俺はそうはならないよ。板さんと出会って、俺の反面教師になってくれたから、そんな失敗はしないよ(笑)」(私)。

世界各地を渡り歩き、建築の第一線でバリバリ働き、稼ぎまくり遊びまくっていたという板さんが、過労と生活習慣が原因で、脳梗塞と心筋梗塞で倒れ、半身不随になったのが8年前。こん睡状態・リハビリ生活、、、やがて独り者に戻ってしまっていた。アパート暮らしとなったその後はアル中と肝機能障害、そして糖尿病、借金地獄というある意味お決まりのパターン。登った山は高かったけど、そこから転がり落ちるのも早すぎた、いや速すぎた。そしてその山のふもとで私との出会いがあった。

一番低いところで出会ったのに、板さんの心はいつもまだ山のてっぺんにいた。山のてっぺんにいる人と、山のふもとで話をするわけだから、いつも心が通じ合わないんですよ(笑)。

 県道8号線が高架から地上におり、いよいよシンタロウの家に向かう。もう富士山など見えやしない。車椅子のシンタロウを筑波山に連れて行くのは以前からの約束ではあったが、今回の旅行の主人公はシンタロウでなく、板さん。(シンタロウと筑波山に関する記事は以下。)http://kanpasu2004.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_f2eb.html

 何故筑波山&温泉旅行の主人公が板さんかというと、以前ブログで紹介した「かんぱす10周年台湾旅行」、実は板さんだけが参加できなかったからだ。(以下、台湾旅行の記事)

http://kanpasu2004.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_f265.html

 最高に楽しかった台湾旅行、しかし体調等の問題で板さんだけを置いていったことは何とも心残りではあった。その年の「心残り」はその年に解消したい。

「板さん、年末みんなでどこ行きたい?」「まあ、ゆっくり温泉がいいっすかねえ」「じゃあ、シンタロウも筑波山に行きたがっているから、筑波山を眺められる温泉に行こう!」

あとは「かんぱす」職員の武井君に下駄を預ける。「板さんを筑波山近くの温泉に連れて行くから、段取り立てて」。あとは武井君が段取りを立てた。筑波山中の食堂で温泉の割引券を見つけて私が武井君に「こっちの温泉の方が割引で安くなるし、女性陣の好きな足裏マッサージもあるし、こっちに変えない?」と進言してみたが、武井君に却下された。「ここは露天風呂がホテルの屋上にあるから、ここを選んだんですよ!」。「分かった」と私は進言撤回。

 筑波山山腹のホテルの屋上の露天風呂。12月とは思えない暖かな一日で「台風一過」のように空気は澄んでいた。風も強く、桶がカランカランと踊っていた。湯気も風にさらわれて、すぐ近くにある雲の中に吸い込まれていくので、メガネをかけて入浴してもメガネが曇らない。男性陣だけで18人。狭い浴槽にみんなで浸かっていた。半身不随で着替えに時間がかかる板さんがどこまで「ゆったり」を満喫できたかどうかは分からないが、板さんのためにみんなでここに来た事実は変わらない。

 眼前に富士山が見えた。船橋市の県道8号線から見た朝の富士山とはまるで違って、それは巨大だった。すぐそこにあるかのようだった。18本のチンポコの向こうに見える絶景ともいうべき壮大な富士山。シンタロウに言った。「お前、あの頂上まで登ったんだぞ!」。車椅子になる1年前、シンタロウは作業所の仲間たちと富士山に登った。

風呂から出て男性陣・女性陣が合流してもまだパンツ姿の板さんに女性陣からブーイング。ヨダレを垂らしながらも板さんは、笑顔で返していた。

板さんが自分の失禁やヨダレに気付かなくなってから、もう何ヶ月になっただろうか。歩くだけで転んでしまうようになってから何ヶ月になっただろうか。脳梗塞の後遺症か、アル中や糖尿の影響か、それら全部含んでの、全体的な衰弱か。

それでも板さんは「俺はここを出て、勉強して、行政書士になる。一人暮らしをする」といってはばからない。心はいつも山の上にあるのだ。山のふもとの私たちの進言など、おそらくは雲に消えて届かないのだ。山の頂上にいる板さんの心は、雲を突き抜けているので、いつも晴れ渡っている。これは昔からなのか、障害者になってからなのかは分からない。昔の板さんのことは、私は知らないのだから。

 板さんにこう質問したことがある。「好きなだけ食べて、好きなだけ酒を飲んで、1年でのたれ死ぬのと、俺たちのいうことをちゃんと守って、節制して10年・20年生きるのと、どっちがいい?選んでいいよ。」

 間髪入れずに板さんは答えた。「好きなだけ食べて飲んで、20年生きたいっすねぇ」・・・何も分かっちゃいねえんだ、このオッサンは。死の淵から蘇って今生きているのに、まだ自分は不死身だと思ってるんだから・・・。

 とにもかくにも、板さんを筑波山の温泉に連れて行かれた。12月とは思えない暖かな一日。空気は透き通るようで、富士山はすぐ目の前にあった。茨城で一番の美人が働いているという噂のマクドナルドに立ち寄ることはできなかったけど、いい一日だった。

 こうして「かんぱす」「クローバー」の一年が終わりました。私は12月30日のブログ「よいお年をお迎えください」の中で、「順調すぎる一年」「年を越すのが恐い」と書いた。

http://kanpasu2004.cocolog-nifty.com/blog/2006/12/post_29ab.html

 筑波山からちょうど1週間が過ぎた1月3日。板さんは本当に山のてっぺんに登ってしまいました。享年54歳。夕方散歩から戻ってきて、心筋梗塞でした。

 おそらくは大好きな箱根駅伝を見終わってから散歩に行ったのでしょう。自身も「青梅マラソン」に参加したことがある、大の陸上ファン。今回も「順天堂か、東海でしょう。古豪復活はないでしょう。」と予想していました。

 枕元には別れた奥さんと子供たちの住所などが書いてあるメモ。

 「向こうには新しい生活があるのだから、邪魔しちゃダメだよ。今の状態でどのツラさげて、会いに行くんだよ。あわせる顔ないでしょ?」何度私が説教しても、きっと山の上から聞き流していたのでしょう。そして会いに行こうとしていたのでしょう。

 今から思えば、筑波山の日の朝、「今年もサンタの大役は果たしたんですか?」と私に聞いてきたのが板さんでした。もう一度サンタさんにでもなるつもりだったのでしょうか。その時は質問の意味を予測することもできませんでした。

 板さんよ!あんたは何にも分かっちゃいなかったんだよ!子供さんが小学校3年生の時には、あんたはすでにサンタじゃなかったんだろ?どれだけ時間を巻き戻そうとしてるんだよ。いつもあんたは、何にも分かっちゃいねえんだよ!

 板さんとの最後のお別れの日は、筑波山の時と同じように、さわやかに晴れわたり空気の澄んだ一日でした。思えばこの人と約束した日は、いつもこんな天気だったように思います。どんな運をもらってこの世に生を受け、どんな運を山のてっぺんに持ち帰るつもりなのかこのオッサンは。

 私の予想を超えて、たくさんの人たちが最後の別れに手を合わせてくれました。これだけ好き勝手な人生を送ってきたこのオッサンに、なんでこれほどの人たちが手を合わせているのか。

 「板さんよ!もったいない話だと思わない?」そう思いながら手を合わせている私に、板さんからどんな答えが返ってくるか、これまでの付き合いの中で簡単に想像ができます。

 「きっと私の人徳じゃないですかねぇ」・・・きっとそう答えるでしょう。

 最後に好きなだけ酒を飲ませてやりたかった。後悔というより過去形の願望です。

 板さんよ。しょうがねえから、冥福を祈ってやるよ。そしてこれからは山の上から見守ってくれよ。あんたが時折みせる本当に優しい目で接してくれた俺の子供たちを。そしてあんたが最後まで会いたがっていたあんたの子供たちを。

 

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2006年11月23日 (木)

かんぱす10周年台湾旅行~

「かんぱす10周年 台湾旅行」に関する記事です。本来ならば、その雰囲気をリアルに伝えるべく実名表記にしたいのですが、一応職員以外はすべてニックネームを使わせてもらいました。あらかじめご容赦下さい。しかも、記事がとても長げえことも、ご了解ください。

                          平成181122

                         かんぱす所長 友野 剛行

<台湾旅行にいたるまでの経緯>

・「かんぱす」は平成8年2月にスタート。(小規模福祉作業所として補助対象事業になったのは4月。)すなわち平成17年度の2月にはすでに満10年を迎えていました。だから当初は平成17年度の冬に10周年海外旅行を企画していたのです。平成169月におこなわれた「かんぱす父母会」で第一次企画を発表し、その月から毎月給料から2千円ずつ「かんぱす旅行積み立て」として徴収してきました。

 ところが平成17年5月のしんちゃんのあの事故。生死のふちをさまよい、その後も「かんぱす復帰の目途が立てられないしんちゃんを置いて、10周年旅行を実現する気持ちには誰一人としてなれませんでした。平成17年8月の父母会で、「本年度の海外旅行は凍結。来年しんちゃんが戻ってきたら、しんちゃんを連れてみんなで行く」と宣言。

 しんちゃんが奇跡的な快復を遂げて、車椅子ながら「かんぱす」に戻ってきたのが3月。しかし当初は入退院を繰り返し、およそ海外旅行など行かれるような状態ではありませんでした。本人の努力で体力も回復し、なんとか旅行に連れて行く目途が立ったのが夏頃。この頃から本格的に旅行の準備を始め、担当の武井と、JTB船橋のI氏による打ち合わせなどが始まりました。

<旅行の内容・日程の決定!>

 そして10周年旅行の概要も決定しました。11月19日()から21日()までの2泊3日、場所は台北です。旅行参加者は、「かんぱす」「クローバー」の仲間たちをはじめ、かつて「かんぱす」で働いていて今は「もえぎ」や「かりん」、「NPO法人とまりぎ」で働いている仲間たち、そして就職者の中からK君。また初の海外旅行。みんなの体調面のケアの必要性と、しんちゃんのサポートの関係から、しんちゃんのお母さんで現役の看護師をしているしんちゃんママにも参加を依頼し、合計26名ということになりました。

<パスポートの申請>

 これはとても大変でした。本人のできること・できないこと、そしてそれぞれの家庭背景も考慮しながら26枚のパスポートを揃えるのは、思っていたよりも苦労しました。普段ビッチリのスケジュールで仕事をこなしている仲間たち。その間を縫うような形で申請に行ったり、受け取りに行ったり…。そしてそれを数名ずつ、計画的に。途中様々なハプニングに見舞われたりしながらも何とか人数分揃ったときには、正直ホッとしました。

<旅行前日>

 いよいよ前日。しかしすでに半分の仲間にとっては、旅行は始まっているのと同じでした。飛行機の時間の関係で、全体の集合時間が早朝5時40分。約半分の仲間が「かんぱす」「あかり」に分かれて前日から泊り込みです。

 ここ数日、浮き足立つ仲間たち。心配で電話をかけまくってくる親たち…。

 夕方6時、「あかり」に旅行担当者の6名(友野・武井・塚本・三輪・菅野谷・大槻)が集まって最終打ち合わせ。当日5時40分に誰一人として遅れることなく集まるためには、そして集まった面々が何らトラブルなく予定している飛行機に乗るためには、かなり綿密な打ち合わせが必要でした。バス旅行や電車旅行のように、出発時間を多少遅らせたり、電車を1本遅らせれば済むという話ではないからです。

 朝の送迎の方法から、モーニングコールの担当、切符のスムーズな買い方、連絡の集中方法まで、すべて事細かに決めました。

前日のうちに、大部分の仲間たちの荷物のチェック。あんちゃんは、通帳から年金手帳まで持ってきてしまう。ジャイアン君はゲームを持参するしないでひと悶着。K君はよほど日本が嫌いになったのか、パンツ7枚をカバンにいれ、キヨシは大槻君が準備したカバンを無視してカバン3つを持っていこうとする。エスキモーのような格好で南国に行こうとするコージ。卓さんは三輪さんがわざわざ自宅まで行き、90歳になろうとする卓さんのお母さんと一緒に荷物の準備。

 心配の一つに海外では携帯電話が使えないという問題がありました。携帯慣れしている我々は、事前の打ち合わせが不十分でも途中携帯で連絡を取り合えば済むという日常を送っています。そのままの意識で海外に26名で移動したら、いろんな失敗が予想されたからです。しかしJTBのI氏が海外でのレンタル携帯電話の手配までしてくれた(1本1日300円程度)ので、ずいぶんと楽になりました。

 ある程度準備が順調に進んで、みんなの体調管理も順調(1週間ほどはみんなの仕事量も抑えて、体調管理優先で作業をしていました。)で、本番を待つばかりとなりました。

 前日うちあわせで、最後に私はみんなにこういいました。「最後は全部私が責任を取るから、私の首が飛ばない範囲で、思いっきりみんなを楽しませるように。みんなを楽しませるということは自分たちも同じだけ楽しんで下さい。」

 大金を払って行くのです。2年間積み立てたお金を使って行くのです。その重みを「楽しみたい。楽しませたい。」という気持ちにつなげて結構。ピリピリするのは私一人で十分だと思っていました。

<旅行初日>

 打ち合わせ・シナリオ通りにまずは進んでいきました。本田さんが成田空港まで車椅子を含む7人を送ってくれたことによって、ゆとりも生まれました。遅刻者はゼロで、みんな元気です。ただしくにちゃんだけは緊張で引きつった顔。空港には予定通り7時40分には全員集合して、手続きを待つばかり。集合写真を撮りました。しかし数えてみると25人…。「一人足りない!」と思ったら、菅野谷さんが空腹に耐え切れず、ひとりでおにぎりを買いに行っていました。25人と26人、2種類の集合写真。

 その時点で私は「くにちゃんとコミ君だけは要注意」とみんなに伝えてありました。パスポートとチケットは節目節目で本人が持たなければならないからです。とくにコミ君はカバンのどこにパスポートを入れたかを、分かる人全員集めてそれを伝えておきました。

 しかし、荷物検査が終わり、空港の構内に入り、搭乗手続きで待っている間、ちょっとした隙間を見つけて、くにちゃんが逃走。厳重な警備で囲まれている構内からいとも簡単に逃げ去っていき、倉庫に隠れてしまいました。飛行機がよほど恐いのです。私が追いかけ、つかまえ震える手をとって再び構内へ。普段ならパスポートなしで入ることはできないところですが、事情を見ていた空港警備の人が入れてくれました。そこから先は武井君がマンツーマンでくにちゃんにつきました。

 さて飛行機への搭乗。車椅子のしんちゃんとしんちゃんママ、大槻君の3人は別の入り口から先に入れてもらいました。車椅子も検査の対象で、機内には別の車椅子で乗り込むからです。残り23名が乗り込んだとき、予想外の事態がそこにありました。我々26名の席がバラバラに用意されていたのです。狭い機内で大きな荷物を持った客が次々と乗り込んでくる。そんな中、我々が移動したり立ち上がったりできる状況ではありません。とりあえず塚本君・くにちゃん・タケシ君・武井君だけはなんとか固めて座らせることができ、私はみんながあまり見えない席に座らざるを得なくなりました。立ち上がると「シートベルトを着用して座って下さい」と注意される状況。「下りるときが勝負」と腹をくくるしかありませんでした。コミ君が一人で座っているのが遠くに見えました。トイレに行きたくソワソワして何度も注意されています。スチュワーデスに話をし、なんとかトイレまで連れて行ってもらう。

 飛行機が飛んでいる間、緊張で今にも逃げ出す勢いのくにちゃんを塚本君がなんとか取り押さえている。しかしその横で同じく緊張しているタケシ君がくにちゃんの態度に八つ当たりして大騒ぎ。大変だったようです。

 なんとか台北空港に到着し、やっと仕事ができる環境ができました。私は比較的前のほうに座っていたのでみんなに「席を立つな。最後まで待っていろ。」という指示を出すことができました。コミ君がカバンを持たず下りようとウロウロしている姿が見えました。カバンをなくしたのです。スチュワーデスに話をし、まずは他の客が下りて落ち着けるまで待機させ、カバンを探してもらいます。後ろの方の収納庫にありました。カバンをしまってから席の移動になったようです。

 何とか全員飛行機を下りて、台湾に入国手続き。一人一人恐い顔をした入国管理官に尋問される形で台湾の国に入っていきます。我々がみんなの間に入って対応。ところがパスポートをなくす仲間が出てしまいました。コミ君です。パスポートをカバンのどこに入れたのかは今回の旅行参加者のほとんどに伝えてあり、みんなでコミ君に監視の目を光らせていたはずなのに、その隙間を縫って、コミ君らしい仕事をしてくれました。武井君が慣れない英語(都立大の英文科卒)で事態を伝え、機内に残されていたパスポートを見つけてくれた。

 初めて台湾の地に足を踏み入れ、その暑さだけが「異国の地」の証のようでした。顔も同じ、看板は漢字だらけで意味が分かってしまう。車は右側通行で左ハンドルだが日本車しかない状態。日本語で話しかければカタコト日本語で返ってくる。空気の匂いの違いは食文化の違いのようにも感じられました。

 台湾人の今回のガイドさん。呉さんという初老の男性。流暢な日本語で案内してくれます。あとで詳しく述べますが、このガイドさんとの出会いによって、今回の旅行は数倍楽しめたといってもいいでしょう。コミ君ハプニングで全体の時間がかなりずれ込んでガイドさんをずいぶん待たせることにはなってしまいました。しかし笑顔と「かんぱす御一行歓迎!」の横断幕で出迎えてくれて、まずは「専用車」というマイクロバスへ。車椅子にとっては厳しい条件でした。急な階段でしんちゃんの肩幅くらいしかない幅。担ぎ上げるにもこちらの手を回すスペースさえありません。一度目は私が馬力で持ち上げましたがこれを10数回繰り返すのかと思うと「大丈夫だろうか…」そんな不安もよぎりました。2回目からはしんちゃんママがしんちゃんに怒鳴りつけました。「アンタならそのくらい一人で登れるでしょ!ひとりで登ってみなさいよ!」私もハッとして2回目からは本人の出来るところを見計らいながら必要なサポートをするという形をとり、3回目、4回目と昇り降りも上手くなりました。上手くなってからはサポートを大槻君や塚本君に任せるようにしました。何しろ急な階段なので、お尻から出血が確認されましたが、大事には至りません。

 マイクロバスでまずは観光地である中正紀念堂へ。台湾での「中華民国」を建設した蒋介石に関する記念堂です。蒋介石の銅像やさまざまな歴史の断片、ガイドさんからの説明に一番喰らいついていたのがジャイアン君とあんちゃん。ジャイアン君のダジャレがどこまで通用していたかは分かりませんが、終始ご機嫌で話しかけていました。毛沢東の実践論と矛盾論を大学時代読みふけっていた私としても、毛沢東のライバルで敗北した蒋介石の記念堂は、複雑な思いながらも感銘を受けました。微動だにもしない警備・きらびやかな空間、とてもよかったです。輪からはみ出して勝手な行動をする人もおらず、みんながその説明に集中できたのもよかったです。

 その後、龍山寺に立ち寄り、リバービューホテルへ。そこで多少くつろいだりしている間にミニ職員会議。くにちゃん逃走とコミ君ハプニングの件、我々の立ち位置の悪さの軌道修正(多少のカミナリも落とす)、今後のスケジュールについての確認など。

 夜、再びマイクロバスに乗り込み、台湾料理の店へ。ここも食堂が地下でエレベーターもなく急な階段。男4人がかりでしんちゃんを下に連れて行く。体力勝負の初日だったので、腹もペコペコ。それにしてもものすごい品数と量の食事!あれだけ脂っこい料理なのにむねやけがしない。烏龍茶が日本で飲んでいるものと全く違い、とにかく甘い。やっとのことでお皿を空にしたら「サービスよ~」といって炒飯の大皿の追加。なんとか平らげたら「またサービスよ~」と炒飯!「もう無理ですよ」と話すと「もって帰りな」とカタコト日本語で言ってくれて、炒飯の残りを全部包んでくれた。日本ではこんな経験はできないですよね。

 ホテルに戻ったのが夜の9時。でも時差が1時間あるので、実際は10時。夜遊びも企画していたがみんなホテルに帰って風呂に入ったらバタンキュー。タケシ君も布団に入って10秒でいびきをかいていました。早朝の集合と恐かった飛行機、盛りだくさんの企画に、みんなはもう遊ぶ余力はありませんでした。

 しかたなくみんなが寝静まった夜に職員としんちゃんママだけでミニ宴会。「かんぱす」の初期を知る菅野谷さん、「かんぱす」の形がどんどん作られてきた発展期を支えてきた大槻君、そして今の形で入ってきた塚本君・武井君・三輪さん…。「かんぱす10年」を記念しての旅行。当然話の花も咲きます。途中からしんちゃんママの人生哲学について。女性陣にはいい勉強になりました。

<旅行2日目>

 ホテルでのバイキング朝食を済ませて、再びマイクロバスに乗って、基隆の観光。バスの中では「台湾かんぱす」を作ろう、という話。塚本君が所長に立候補。「ここでどんな仕事する?」その答えが分かりきっていながらあえてイタル君に質問。「ビラまきです」。やっぱり…。 

左には高くそびえる山々。右には海。日本にも同じ風景はありそうだが、何故か不思議なシダ植物。石畳の道、車椅子を押す塚本君・あんちゃん・ダイスケ君。男・浜ちゃんは、なぜか監督役に徹していたようです。上り詰めた所には、塩水でえぐられた奇妙な岩山。記念写真も撮りました。海風が湿り気を交えながらもさわやかに吹いていて、昨日ほど暑くないさわやかな午前。みんなの笑顔も絶えません。「クローバー」のミヨコさん・ミチタカさんは看護師のしんちゃんママに付き添われて、なんとかみんなについていけました。昨日逃走劇を繰り広げたくにちゃんも、風が吹けば心が広がるタケシ君も、全身に海風を受けながらご機嫌です。ダイスケ君・浜ちゃん・あんちゃん・塚本君の仲良し4人組は、おしゃべりが延々と続いています。いい悪いは別として。

 その後、野柳へ。石畳の高い階段。しんちゃんには申し訳なかったですが、車内で待機。大槻君がそれに付き合ってくれました。記念写真を撮ったり、お金を投げ入れるおまじないのようなものにみんなが夢中になったり。マナブ君そっくりの銅像にみんなで笑ったり。帰りに中国語しか話せない喫茶店でコーヒーを注文。身振り手振りでなんとかコーヒーを買う面々。これが苦い!でも美味しかったです。喫茶店にはネコが一匹。ネコを飼っているくにちゃんが優しく触りに行きます。ヨシコさんはネコが恐くて近づけず。

 その後、バスに乗り込み、台湾料理店へ。目玉はショウロンポウと餃子。これがまた美味い!みんな腹いっぱい食べつくして、再びバスに乗り込み、世界一高いビル「101」へ。500m以上の高さのビルの最上階までなんと36秒。これもまた世界一の速さのエレベーター。実は昼から午後は自由行動という企画書を出し、その分の料金は払っていなかったのに、ガイドさんのご厚意で、昼食の企画やそこまでのロードサービス、その後の「101」への移動まで、ガイドさんとこの運転手がやってくれて、「101」の入場料を安くする交渉までやってくれたのです。わすか2日間で、みんなのことを好きになってくれて、楽しめるための様々な配慮と段取りをノーマネーでやってくれたのです。

 世界一の高さのビルから見下ろす高層ビルの群れ。あまりの高さゆえに恐さすら感じませんでした。

 そしてそこからはじめてのグループ行動。7人に携帯電話を手渡し、綿密な打ち合わせのもと、グループごとにバラバラになりました。女性陣は6名(菅野谷・三輪・しんちゃんママ・エミさん・ヨシコさん・ミヨコさん)は一つのグループで、当初より検討されていた足つぼマッサージにタクシーを走らせていきました。6人全員が足裏などのマッサージを受けたそうです。菅野谷・三輪・しんちゃんママの3名は「痛いけど気持ちいい」と話していましたが、みんなのほうはケロッとしていました。体が小さすぎて肩もみと足のマッサージの両方を同時にするのが難しかったのがエミさん。「いたくない?」などと話しかけられ「は~い」などと答えていたようです。セレブにでもなったかのように。ヨシコさんはエステにはまってしまい、夜まで大興奮。

 冴えない男性陣は町をウロウロするばかり。行動力の差を思い知らされました。ミチタカさんなどは「無印良品」でイチゴジャムを買っていました。

 夜、各グループは「101」の地下にあるフードコートに再集合し、食事。50店舗近くの店に広い敷地。1品だけ食べるのはもったいないので「いくつか注文して食べろ」と指示していましたが、一品一品の量がものすごく、とてもハシゴはできませんでした。三輪さんのラーメンは辛すぎたようで、しんちゃんママに食べてもらっていました。それぞれが思い思いの店に行き、だんだん慣れてきた現地通貨の「元」を使っての注文。(この「元」はまとめて私が通貨交換し、それをみんなと随時交換したもの。)「100元かあ、安いなあ」と、計算が得意なジャイアン君・あんちゃんは口にして、「円」すらもよく分かっていないはずのK君・ユウタ君・スグルさんらがマネをして「120元かぁ」などと言っていました。コミ君はクレープをほおばって、ご機嫌。昨日のハプニングは忘れてしまったようです。

 食後はタクシーに分乗してホテルへ。台湾では実はタクシーの方が地下鉄よりも安くて旅行初心者には安全なのです。ホテルの名刺を渡すだけで済むのですから。

 この日の夜は、昨日よりはみんな元気。夜遊びの企画も再開しました。「夜遊びに行きたい人は?」…あんちゃん・ユウタ君・K君・ミチタカさん・ミヨコさん・マナブ君・コミ君・ダイスケ君・キヨシ君が立候補。我々の側も三輪さん・菅野谷さん・しんちゃんママ・塚本君・武井君が立候補。友野・大槻という「かんぱす」が一番長い2人が中に残り、居残り組を見ることにしました。グループに分かれて夜の町へと飛び出す仲間たち。しかしロビーでウロウロしている仲間を発見。浜ちゃんです。「いこうかな?やめようかな?」ずっと悩みながらウロウロしています。結局「やっぱりいく」とみんなを追いかけて飛び出していきました。悩める男・浜ちゃん。

 夜遊びでは、浜ちゃん・あんちゃん・コージ君・塚本君が射的のゲームに興じ、ぼったくられる。4人で金額を振り返らずゲームに没頭し、4人で4000元(1万5千円)の請求。塚本君が日本語で逆ギレしてなんとか支払額を1000元(ひとり千円弱)にまけさせて、事態を収拾。男・浜ちゃん、ぼったくりに合う。台湾かんぱす所長・塚本、ぼったくりを振り切る。

 深夜はミヨコさんも交えて恋愛論議。ミヨコさんの人生経験や塚本君の淡い恋の話。武井君の小難しい恋愛哲学など。

<旅行3日目>

 深夜まで起きていた人たちは眠い目をこすってホテルのバイキングへ。昼食の時間があまり取れないことから「腹いっぱい食わせおけ」と指示。

 朝食後は武井君・菅野谷さんの打ち合わせで、近くの「二二八和平公園」にいくことに。入り口近くでハーモニカやトランペットを演奏する白人男性。友野・キヨシ君・コミ君・ミチタカさん・コージ君という音楽好きの面々は座り込んで聞き入っていました。キヨシ君が一言「何か俺すごく気持ちがいいんですよね。ここに来てから。ずっと調子がいいんですよね~。」…彼との付き合いは長いけれど、こんな風に自分のことを語ってきたのは初めてです。公園内を散策すると、台湾リスが人間慣れして近づいてきます。日本の敗戦=台湾の「独立」を記念して作られた石造では、深い井戸のようなものに水が流れていく光景を、微動だにもせずコミ君・キヨシ君が眺めています。コージ君は飽きていました。その後、我がグループは台湾博物館へ。大航海時代の歴史上の遺品や絵画、「ポルトガルかなあ、スペインかなあ」「これ、マルコポーロ?」ミチタカ君・キヨシ君・友野で知的な会話も弾みます。説明は中国語と英語、とりあえず私が英語を訳して説明していると、キャーキャー大騒ぎの日本人集団と遭遇。菅野谷・三輪・エミさん・しんちゃんママ・ヨシコさん・ミヨコさんの女性陣。同じものを鑑賞しても話題がこれほど違うのか、と実感。

 公園のグループ行動は11時15分に集合。みんな集まったかな?

 どこの公園でもそうだが、台湾では広い場所には必ず太極拳をしている人がいます。ここも例外ではありません。ただこの公園が違うのは、その太極拳の輪の中に、日本の侍も混じっていたことです。男・浜ちゃん、太極拳を身につける。

 さあ、帰ろうかというときにみんなが口々に言います。

 「まだ日本に帰りたくない」「もう2~3日、ここにいたい」「卓さん、お金出してよ」。それほど楽しい3日間だったのでしょう。

 12時にホテルに戻り、マイクロバスで土産屋へ。みんな残してきた人たちへの思いをお土産に詰めて、大きな袋をもって歩いています。袋にたくさんのお土産をさげて歩いている菅野谷さんに卓さんが一言、「そんなもん拾ってくるから重たくなるんだよ」。「こんなもん、落ちてないから!」。ヨシコさんは自分で身につけるキーホルダーを買って大興奮。マナブ君は「お土産誰に買ったの?」と聞かれて「マナブだよ~」。自分で食べるのはお土産とは言いません。

 帰りの飛行機はガイドさんが手早く手配してくれて、みんな固まって座ることができました。だから混乱はなし。この3日間で、それぞれの役割分担も自然発生的に作られて、実にスムーズな動きでした。自分も楽しいから、自然と仲間と協力する意識が持てる。そんないい循環が、この3日目には形作られていました。

 帰りの飛行機は、あっという間でした。ほとんど記憶がありません。くにちゃんはまた青い顔をしていましたが周りが支えていました。飛行機の中では男・浜ちゃんがくにちゃんの手をしっかりと握りしめていました。飛行機を降りて、入国手続きへ。「楽しかったねえ」と口にする仲間たち。

 帰りにはまた本田さんが車で迎えに来てくれたので、車椅子も含めて非常にスムーズに動けました。電車組と車組に分かれて船橋へ。電車の車内ではジャイアン君・あんちゃん・塚本君・キヨシ君が大声でおしゃべり。まだ台湾にいるような雰囲気でした。見た目も含めて。

 こうして「かんぱす10周年台湾旅行」が無事に終わりました。またいつもの「かんぱす」「クローバー」の毎日です。でもその毎日の積み重ねが、こうした楽しい経験につながること、そのことを自覚して今後の毎日をより充実させていければ、と思います。

                                   以上

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2006年11月18日 (土)

全部時効!

明日の早朝から3日間「かんぱす10周年・台湾旅行」に行ってきます。「かんぱす」「クローバー」の仲間たち・元「かんぱす」で一般就労した仲間や他の作業所でがんばっている仲間も誘って、総勢26人の大移動です。朝6時に全員が元気に無事集まるか、、、今はそれだけが心配です。

10周年。側面に立って振り返るならば、順調に一歩一歩前進し続けた10年だったとはいえます。他にはないひとつの福祉の形を作り出してきたとは思っています。しかし「側面」でなく真っ只中にいた人間としては、そんな楽観的な感想では済まされないさまざまなハプニングを想起せざるを得ません。思えばいろんなことがありました。

イライラして、通行中の高級車を蹴りつける仲間もいました。(私も土下座して謝りに行った覚えがあります。)毎晩ニュースの時間になると暴れて壁やガラスをぶち割り、仲間に危害を加え、手のつけられない状態が3年近く続いた仲間もいました。(彼の生活を支えるために、私も夜中にずいぶん通ってそのまま泊り込んだ日々は長かったです。)お金を盗んでそのまま放浪し、真冬に3ヶ月も電車を乗り継いでの逃避生活をしていた仲間もいました。(終電後から始発前まで、毎晩探し続けました。品川駅は今でも目をつぶっても歩けます。)仕事中路上での殴りあいのけんか。目がかゆい・耳が痛いといってはサボってしまう仲間を迎えに行っていた日々。親とけんかしてパニックになり、自衛隊の演習場の鉄条網を乗り越えて侵入してしまった仲間。(「かんぱす」のせいにされてしまいました。)言葉の無い女性が裸足で作業所から抜け出し、車道の真ん中を歩いて踏み切りも超えて、放浪してしまったこと。コンビニでパンを袋のまま噛り付いていて、店員が不信に思い通報してくれました。一年間で何回も骨折する仲間たち。被害妄想が昂じてテレビ番組に連絡して「私をここから救出してください。それを特番にして下さい」と手配をしていた仲間。駅での度重なる迷惑行為。お母さんを裸にして興奮してしまう仲間。ふだん寝ながら仕事をしているのに、その日はなぜが目がパッと開いていて走って仕事をしているなあ、と思ったら実は足首を骨折していた仲間。(痛くて目が覚めたのでしょう。)隣の民家に入り込んでしまう仲間。「外でご飯食べるから」とウソをついてお母さんから毎朝1000円もらって、帰りにエロ本を読んでいた仲間。親に見つからないよう毎日エロ本を捨ててから帰っていたといます。迷子だけで何回あったでしょう。深夜3時に八王子まで迎えに行ったこともあります。私が実習に使い、無事一般就職したのに、就職初日に「やっぱり、かんぱすに帰りたい!」と職場から逃げ帰ってきてしまった仲間。その他数々の犯罪スレスレのハプニング・・・。

いろいろあったけど、この10周年旅行で全部時効とすることをここに宣言します!もちろん私のあんなことや、こんなことも含めてです。

さまざまなハプニングで私をしびれさせてくれた仲間たちですが、彼らの前向きな気持ちは、本当にすごいものがあります。七転び八起きということばがありますが、いったい彼らは何回転んで何回立ち上がってきたのでしょうか。それを時間で表現しなおすと10年ということになるのでしょう。

彼らの目・表情・気迫・それらを含んだオーラ、これに感化された人間は、なかなか彼らに背を向けることが出来ません。事実「かんぱす」の10年のうち、私が知る9年強の間では、試用期間3ヶ月をすぎた常勤職員で、彼らに背を向ける形で「かんぱす」をやめてった人間は実は一人もいないのです。普通ありえない話ですよね。家庭の事情などでやむを得ず辞めた人は10年間の間に1~2名いますが、いずれもボランティアとしてであったり、何らかの形でずっと関わり続けてくれています。(茨城のKさん、読んでるよね?そろそろ顔を出しなさい!。)

そんな魅力的な連中に出会えたことを、今あらためて喜びとして感じ、緊張感の中にも「楽しい旅行にしたい」という気持ちを強く持ちます。

会議しながら書いてましたので、支離滅裂な文章ですが、とりあえず行ってきます!

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2006年11月12日 (日)

ダブルブッキング王

今日は朝から「とまりぎソフトボールクラブ」の試合&相手チームと合同のバーベキュー大会。大穴北東町会イースターズからのお誘いです。朝、試合前の練習をしてひと汗かいたところでさあ試合。ところが私はここで現場を離れなくてはなりませんでした。

実はこの日、ダブルブッキングで「とまりぎジョギングクラブ」が「小出監督ランニングアカデミー」に参加する日でした。小出監督&佐倉アスリートクラブの方々に走り方などを指導してもらうというものです。

車で佐倉に行き、開会式まで参加。「あっ小出監督だ!カメラを忘れた!」仕方なく携帯電話でカシャ!これがその写真です。Img004_1 小さくて見えづらいですが、小出監督が挨拶している時の写真です。

開会式だけ参加して、ソフトボール場に戻ります。試合はもう終わって、バーベキュー大会の頃です。腹ペコでしたが頭の中では肉を食べておりました。ところが、、、「終わってる・・・・」。

相手チームの方々はもうビールで真っ赤な顔。私を見つけるなり「監督、今日どこ行ってたのよ~!」「すみませんでした~」

両企画の関係者の方々、今日は本当にありがとうございました。スポーツっていいっすねえ、本当に。

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2006年10月29日 (日)

金魚のキスのしかたについて

固い話で~す。今日は書きたいテーマが二つあります。日曜日。子供たちとの約束もあり、夜はお友達との約束もあるので、その隙間に書きます。まずは一つ目。

私は4年前に、「職業リハビリテーション」(障害者の就労支援)に関する研修に行きました。当時「職リハ」の世界でさかんに言われていたことは、「まずは個人の機動力・柔軟性を活かして地域のネットワークを作ること」でした。個人で作り上げるネットワークを組織に還元していく・組織を軸としたネットワークに発展させていく。そのためにはまず「個人」ということです。なぜ「個人」でなければならないかというと、あまりに「組織」を意識しすぎたり、相手に「組織」を意識させすぎたりすると、「人」としての信頼関係が作れないからです。どんな提案をされても「いや~理事長に相談しないと、私の一存ではお答えできません」「その件につきましては、~と上の者が申しておりましたので、~ということでお願いします」・・・こんな対応に終始するような状態では、その「人」にまわりはついてきません。腹の中では当然「理事長・所長はなんていうだろうか?私の判断は間違っていないだろうか」と小便チビるほど不安に駆り立てられていても、それを態度に出してはいけません。シガラミは外に見せるものでなく、自分の中で消化するものです。「私」というものをまずは知ってもらう。そして「私」を知ってもらうことが組織を知ってもらうことなのです。なぜなら「私」の中には組織というものが貫かれているはずだからです。そしてもしそうでなければ、「私」として動くべきではありません。

私の場合は障害者福祉の世界の人間なので、ネットワークを作るということは、障害を持つ仲間たちが中心になるということです。だから「私」として動く時には(まあ、いつもそうですけど)「私」の中に、障害を持つ仲間たちへの思いや愛情(怒り・悲しみも含めて)を、体中にブチ込んで動くのです。威張ることも媚を売ることもせず、虚勢を張ることも無理やり陰に回ることもせず、普通に他者と向き合うのです。なぜなら、その時点での「私」は、障害者の代理人にすぎず、障害者が求めている他者とのつながりは、まずは「普通の関係」だからです。だから私も「普通」に徹するのです。

さて、4年前の研修。その時のメモで私の5カ年構想というものがありました。講義を受けながら、私なりにイメージしたものを書きなぐったのです。初公開ですが、この4年間はその時の構想に沿って私は動いています。なぞの多い私の行動の種明かしです。

1年目、まずは地域の関係者とのつながりを作ること。地域の福祉関係者・町会・病院・理解のある住民の方々・、商店街や地域の中小企業・・・そういう方々とのつながりを作ることです。地域の福祉祭りなどの実行委員や会合、地域行事への参加を通じて作りました。

2年目、学校関係者。養護学校の先生などとの信頼関係を作ること。実習やちょっとした講演のようなものも含めて活用しました。

3年目、福祉の業界関係者。「福祉作業所等のあり方研究会」に所属し、小さくなりながらも(なってねえか?!)必要な関係者とのつながりを作り、情報などを仕入れやすい環境を作ってきました。情報を仕入れやすい環境を作るということは、自分も情報発信者になることです。そのためには苦手な勉強もそれなりにしなくてはなりません。受験生の手本になるくらい(笑)影でこっそり勉強をしました。

今年4年目は「障害者自立支援法」の施行も絡みますので、行政の関係者。人当たりよく、行政の方々ともニコニコとお話しておりますが、実は4年前に腹黒~く(笑)計画していた「ニコニコ」ですので、ご了解ください。つながりとしては予想を超えて広がってしまい、少々戸惑ってはいます。先日も船橋から遠い市町村の行政関係者から障害者の趣味に関する相談の電話。・・・もう少し話しても大丈夫かな?・・・ペットの飼い方です。ちょっと顔を出してみるにはあまりに遠すぎるのでここで書きますが、ペットを飼うのは小さい子供の育児と同じです。

抱き上げ、キスをすることです。(金魚も?・・・金魚には水槽越しにしてあげてください。やっとタイトルの理由が分かった?)

さて5ヵ年構想の最後、来年は企業関係者です。そのための準備として、まだ青写真以下の状態ですが、今年会社を立ち上げました。5月1日に「会社法」が施行されましたので、ゴールデンウィーク全部つぶして準備して、5月8日に立ち上げました。これもまた受験生の鏡で、一夜漬け勉強のお手本のようでした(笑)。来年に向けて、少しずつつながり作りは準備を進めています。

このように1年ごとにスタンスを少しずつ変えてやってきていますが、なぜ1年毎かというと理由があります。準備に半年・実践に半年、このくらいのスタンスがやはり必要だからです。毎年度前半にまず手を広げます。本当にパーッとね。単なる思い付きや思い込みでなく、計画的にそれなりに準備はしているわけですから、当然つながりは広がります。そして年度後半は、それを少し縮小します(笑)。「縮小」とは二つあります。ひとつは切り捨てることです。障害を持つ仲間たちにとって、あるいは地域や社会全体の障害者にとって、プラスになるメドがたたないつながりを維持する必要はありません。(その人が「障害者にとってプラスにならない人」ということでなく、私がその人とつながる必要性があるかどうかの問題です。)もうひとつは、冒頭でもお話したとおり、「私」から「組織」に還元することです。大切な人とのつながりを「私」としてでなく「組織」としてのつながりに発展させていくことです。あるいはつながりの中での役職を、うちの職員に引き継ぎます。(面倒だから押し付けているわけではないのですよ。誤解しないでね。あっ今日福祉祭りだね。頑張ってね。)

こうして身軽な状態に戻りながら、年度後半から、翌年の準備をするのです。これが私のスタンスです。

5ヵ年構想の集大成としては、これらのつながりをひとつに束ねて、ひとつの形にすることです。それは障害者の雇用と就労の支援、これにつきます。会社作りもそのための準備でした。だからこの時期を選んで立ち上げたのです。私の行動原理の種明かしです。この時期の種明かしも計画どおりです。あ~すっきりした~。不眠と便秘が治るかな?

そして参考になったかな?はやく追いついてこいよ!立ち止まって待つことはしないけど。誰のために書いているか分かるだろ?

坊やと小娘。

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2006年8月28日 (月)

おかげさまで優勝しました。

 先日8月27日の「第23回青年学級対抗ソフトボール交流会」において、「とまりぎソフトボールクラブ」は2部トーナメント戦において、優勝することができました。ここまでこのチームを鍛えてくれた、たくさんの地域のソフトボールチームの皆様への感謝を込めて、ご報告させていただきます。

   *「青年学級」とは、養護学校・特殊学級の卒業生たちが休日などを利用してレクレーションやクラブ活動、旅行などを楽しむためのものです。

 試合そのものは1回戦から決勝戦まで、1試合あたりの平均得点17点、そして全試合毎回得点、すべて圧勝に近い結果でした。もともと普通に戦えば優勝を狙える位置にいることは分かっていました。苦手だった速球派ピッチャーへの対応もこれまで練習や試合に付き合ってくださった皆様のおかげで克服してきましたし、練習の仕方・声の掛け合い方・投げ方や取り方や打ち方、すべて皆様に教わってきたことをそれなりに身につけてきたので、「これだけの地域の方々に支えられているこのチームが負けるはずはない」という気持ちは、みんな持っていました。

  *「とまりぎ」はこの1年間だけでも、4つの町会の一般チーム、シニアクラブチーム、地域の一般クラブチーム、婦人クラブチーム、高校女子ソフトボール部(今年インターハイに出たところ)、障害者施設の職員チーム、病院デイケアのチームなど10以上のチームと交流させてもらってきました。

 しかし「敵は我にあり」…このチームの最大の弱点は<気持ち>にあったのです。ちょっとしたミスでも萎縮してしまい、普段のプレーができなくなる仲間たち。カッとなりやすく、またすぐにあきらめてしまう傾向のある仲間たち。ちょっとしたミスで萎縮したり、互いに責め合ったり、試合を投げてしまったり…そういった<気持ち>こそが、最大の敵だったといえます。

 この日も最初はいつもの悪いムード。「第1戦の先発ピッチャーY君」という発表を聞いたとき、下を向いてしまう他の選手たち。先日の地域の高齢者チームとの試合で、フォアボールを連発するY君に声をかけることもなく、結局エラーの連発で自滅して負けてしまったムードを引きずったままのスタートでした。

 しかし、そんなムードを打ち消したのは、Y君の見違えるような好投。面白いようにストライクが入るY君のピッチングに、ナインのリズムも自然とよくなります。少々のエラーは「ドンマイ、ドンマイ!」。最後はエースのH君の試運転のためにマウンドは譲ったものの、本当に見事なピッチングでした。

 

最大の敵、<気持ち>の問題に、このチームは打ち勝とうとしている。それを証明するようなエピソードが、この日は他にもたくさんあったのです。

第2戦は前年度のチャンピオンチーム。当然エースのH君の出番です。前半はエースらしい好投で大差のついた試合展開。しかし後半突然崩れてしまいました。時折気にしている手を見てみると、なんとボールを投げる右手の親指の爪がはがれて、なくなっていました。先日の試合でボールを当てて、はがれていたのです。痛みを圧してのマウンド。それを見たK君が「あの~ぼく投げましょうか?」…。気が優しく、どちらかというと消極的なタイプのK君が、積極的に自ら申し出てきたのです。

そのK君も前の試合でセンターの打球を追うとき足の付け根を傷めていて、試合中以外は立っていられないほどだったのです。「大丈夫なの?」「走れないけど、投げられます。」…それよりもH君を心配していたのです。

そんなK君の<気持ち>に託して、決勝戦はK君の初登板です。ナインも緊急登板のK君を励まし支えます。フォアボールが続いたときには、みんながマウンドに行って声をかけています。

大ファインプレーも出ました。レフトに抜けようかという強烈な当たり、サードのMさんが飛びついてボールを捕まえにいきます。強い打球はMさんのグローブをはじいて転がっている。しかしそこに詰めていたショートのN君がそのボールを拾い上げ、身を呈してファーストに送球。今度は難しいバウンドをファーストのSさんが体を張って抱きかかえるようにキャッチし、間一髪アウト。支えあう心がMさん・N君・Sさんと受け継がれた見事なアウトでした。

他にもバックホームでアウトにする「1点もやらないぞ」というプレー。冷静にフォアボールを選んで次のバッターにつなごうという姿勢。支えあう心が、最大の敵、一人一人の<気持ち>の問題を克服したのです。

優勝の瞬間はまさに歓喜の瞬間でした。一人一人が、<気持ち>の問題に打ち勝っての優勝なのです。そのことを感じあえたから、あれほど仲間たちが互いをたたえあい、喜びを分かち合えたのです。そして今、この喜びを、ここまでチームを支えてくれた地域の数々のチームのみなさんと分かち合いたいのです。これまで本当にありがとうございました。

是非、秋の「ゆうあいぴっくソフトボール大会」にも勝って「2大会制覇」を達成したいです。また胸を貸してください!

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