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2008年3月20日 (木)

必然性の洞察的探求

 他の職員の疲弊した表情の中に、自分自身のそれなりの疲労も同時に感じ取った。みんな早く帰るように指示し、私も早く帰った。そして今日はひとりで借りてきた映画のDVDを見ることにした。

 RAINという映画だった。人々の日常の、ちょっとした不幸を背負いつつ営まれていく生活の中で、歯車が狂い、それぞれの規模で人生が変わっていく、そういう人生の数々ををデジタルに刻んでいく、そんな映画だった。見終わったあと残る感情は「虚無感」、それがなんとなく心地よかった。

 思えばここ数カ月、私はこの「虚無感」と無縁の生活を送っていた。24時間という一日の時間の中で、意味のない時間を意味のない時間として受け入れ、それを消費するといったことはほとんどなかったのではないか。10分単位で私のすべての時間が意味づけられていた。利用者のための時間、書類を仕上げるための、事業を進展させるための時間。勉強のための時間、家族のための時間、そして心を休めるための時間、体を休めるため、リフレッシュのための時間。その日を忘れるための時間。「〜のため」と無縁な時間を、送ることはほとんどなかったような気がする。

 映画は虚無感に支配されていた。ブルーノートのジャズがずっと流れていた。そしてそれがすばらしかった。この映画の本当の狙いは、実はそこにあったのではないか。

 心に空白がないと、人は感受性を閉ざしてしまう。映像として、ストーリーとして、無理やり心に「空白」を作られ、そこにジャズをぶち込まれたような、そんな感覚だ。だから「人の不幸」の数々をデジタルな情報として流しているだけの映画でありながら、なんとなく心地よい感覚に陥るのだろう。

 私にだって「虚無」というにふさわしい時間の流れを送っていた過去はある。しかし当時と今では、音楽にしても絵画にしても、その感じ方が違う。当時は震えるような感性で、それらをとらえ、骨の中に染み込ませていた。今はその感覚は記憶の中にしかない。決して褒められるような生活じゃなかったけど、感受性は今よりも豊かだった。

 何が幸せか、ある意味分からなくもなってきた。でもその幸せって何か分からないくらいが、きっとちょうどいいのだろう。分かってしまった時点で、何かが終わってしまう気もする。

  とにかくゆったりした夜を迎え、ブルーノートのジャズに心を少し持って行かれた。そんな夜だった。おしまい。

 

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