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2007年7月26日 (木)

親離れ子離れそして兄妹離れのすすめ

この重いテーマについて、あえて書く!一部の福祉関係者、保護者などにとって見たら耳の痛くなる話であろう。しかし書く!

今日、千葉市に住む私の実妹から、メールが来た。以下全文。

そろそろ巣立つかも。一羽で過保護に育ったからなかなか飛ぶ勇気がない。親達が促してるんだけど。もしかしたら兄ちゃんが助けた彼奴かもしれない。違っても彼奴の兄弟には変わり無いね。

実は数週間前の日曜日の朝、実妹から弊社に電話。「団地の階段の踊り場の上に、ツバメが巣を作って、ヒナが一匹落ちちゃった。助けようがない。お母さんツバメも困っている。どうすればいいの?」

「お兄ちゃんが飛んでいくサ!待っていなさい!」

たまたま休みの日の朝だったので、すぐさま現地に向かった。片道1時間以上。ヒナは助かるか・・・。

現地に着くと、その救出の困難さに思わず愕然とした。階段の踊り場の天井なので、簡単に届く場所ではない。3匹のうち、2匹はすでに亡くなっていて、一番小さなヒナだけが動いている。

「お兄ちゃん・・・助けてあげて!」

私は団地から離れ、近所に長い脚立のある家を片っ端から探し回った。ずいぶんと走り回ってやっと見つけた。「すみません!脚立を貸してください。ヒナが落ちちゃったんです!」玄関から出てきたおじいちゃんは「そりゃあ大変だ。持っていって。錆びてるから開くかわかんねえけど。」

団地に戻り階段を走り、アクロバット的なかけ方で脚立をなんとかツバメの巣まで届かせた。錆びた脚立がもし折れたら、踊り場の4階から私はまっ逆さまだ。福祉の世界では「惜しい人をなくした」とかと言われるのだろう。

でもヒナを無事救出。足は震えたが、妹の期待には応えた。

そのヒナたちが、巣立ちの時期を迎えているというのが、先ほどのメール。なんとも可愛い、私の妹らしいメールだ。ツバメの巣の写真までついていた。200707260734331

妹よ、困ったときはいつでもお兄ちゃんを呼ぶんだぞ!

いつでも助けになってあげるからな。

ちなみによくこのブログにコメントをくれる「giriimo」とか「girl sister」は義理の妹で、妹はどちらもやっぱり兄としてかわいい。

以上、「親離れ子離れそして兄妹離れのすすめ」でした。

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「読んでますよ~」

最近、あちらこちらで「読んでますよ~」と声をかけられる。そういわれた瞬間に「この人のお心を害するようなことは、書いてなかったかな?」と頭の中で記憶の引き出しの総点検が行われる。冷や冷やものである。

昨日、O君の送りで、O君自宅近くまで行ったとき、O君のお父様にお会いし、「読んでますよ~、なにかコメント書こうかと思うんですけど、何書いていいか…」と声をかけられた。

「O君パパが読んでいたとは・・・。じゃあ、あのことは書かなくてよかったぁ。」・・・そんなことを考えました。

「あのこと」とはこんなことです。来月うちの福祉作業所の有志が、富士山に登る計画を立てています。今日もそのための会議があるといいます。そしてその「富士山計画」に、当然元気もののO君も誘ったのですけれど、O君が行くかどうかが決まる前にO君パパ、O君ママが参加することになったのです。「O君が心配なら、その日うちでO君を預かっていましょうか?」という話にもなりかけましたが、結局「O君パパ、ママが行くならO君も連れて行きましょうよ」ということになった。

「面白い家族だなあ」ということで、その記事を書こうと思ったことがありました。

「面白い家族」ついでに、ずいぶん昔、こんなことがありました。O君は養護学校時代から体を動かすことが大好きで、常に体力が有り余っています。作業所に入ってきて1年目。週末になるとO君パパ、ママがO君をマラソンに連れ出したり、サイクリングに連れ出したりと、その有り余った体力の消費のために苦労されています。当時私は、「O君パパとママの負担を少しでも軽くしてあげたいなあ」ということで、若い(体力のある)女性職員を連れて、休日O君とその先輩のU君を連れてサイクリングに行きました。4人で船橋から佐倉まではかなりの距離です。こいのぼりの泳ぐすがすがしい季節でした。(当時撮影したビデオがまだ我が家にあります。)

O君を自宅に送るとき、「O君パパとママは、これで少しゆったりした休日を送れるかな」と思っていたのですが、O君ママから返ってきた言葉に驚かされました。「うちの子を見てくださったから、パパとふたりで海の方をずっと走ってきました。」

「海のほうってどこまで?」

「江戸川越えて…」

「江戸川越えたら東京じゃん!」

こっちは船橋市から佐倉市までサイクリングをしてきて「遠かったなあ」と思っていたのですが、パパとママはなんとその時県境を越えて走っていたのでした。

(体力が有り余っているのは、O君だけじゃなかったのね・・・。)

こんな記事を以前書こうとしてやめたのですが、いや~O君パパが「読んでいる」と聞いて、「書かなくてよかった~」とホッとしました。

でも書いちゃった!O君パパ、これからもよろしくお願いします。富士山は頑張ってきてください。

うちの作業所と「富士山」については以前記事にしたことがあります。

http://kanpasu2004.cocolog-nifty.com/blog/2007/01/post_c98c.html

http://kanpasu2004.cocolog-nifty.com/blog/2006/08/post_f2eb.html

またかつて(9年前?)、O君と一緒にサイクリングに行った女性職員とは、今はどうやら私の息子たちの母親になったようです。

おしまい

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2007年7月17日 (火)

その3

「理念」、これ大事ですよね。福祉の世界では特に、大事です。

実践論としての「理念」は戦略論であり、実践そのものは戦術論に関わる領域です。戦略論とは戦術本質論であることからして、理念は実践を止揚するものであります。したがって理念は常に必ず実践的なものなのです。

「とにかく、俺たちゃぁ、これがしたいんだ。こうしたいんだ。だからこうするんだ。」…これが理念ですよね。理念とは、実践主体がさまざまな限定・規定を受けながらそこ存在しながらも、さまざまな限定・規定をいったん振り払い、捨象し抽象化した実践の概念でありますので、必ずしも具体的な(被規定性を受けた現実的な)実践の指針そのものにはなりません。実践の指針そのものは戦術であり、理念すなわち戦略は、実践主体の背中ににじみ出るものでありその源は実践主体の腹のなかにあるものです。というより、あるべきものです。

さて、福祉事業における「理念」は、常に必ず「数字」(工賃や収益など)と結びついているものばかりではありません。むしろそれらと縁遠い場合もあります。

そうした福祉事業者と「数字」の話をする場合、その事業者の「理念」をまずは肯定的に聞き出し、その「理念」とのつながりを考えておく必要があります。くれぐれも「理念」の否定の上に「数字」を持ち出さないこと。「数字」から「理念」を裁断しないこと。

物差しの違いは当然あります。でも互換性を持たせればいいだけのことです。相手の物差しを否定してしまったら互換性もくそもありません。

具体的な例を出しましょう。

いや、やっぱり例を出すのはまずいかも…。

息子たちが風呂から出てきたので今日はここまで。

読んで損した?

失敗したなぁ~。そんな時間もないくせに仰々しい書き出しをしてしまった。年賀状を書くときに「新年」の「新」ばかりデカく書いてしまって、書ききれなくなってしまった、そんな感じです。

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2007年7月15日 (日)

その2

<○人対△人>の概念

就労系福祉事業の特徴として、あるいは就労系福祉事業そのものを解明する際の物差しのひとつとして、この<○人対△人>の概念というものがあります。

職員あるいは職業指導員○人に対して、障害者あるいは作業員△人見ながら作業を遂行するのか、という問題です。

事業所全体として、例えば指導員3人に対して作業員20名というデータ。それをさらに細かく分析します。指導員Aはおもに作業Dに従事し、3人の作業者を抱えている。(例えばグループ就労のような形。)指導員Bは作業Eで、作業員10人。指導員Cは作業Fで作業員7人。…こんな感じでさらにそれぞれの事業収入と粗利率を出すわけです。

企業の世界では、一定規模の生産性を前提として、そこで必要な労働者数が過剰ならば、リストラ等の手段で生産性やその規模に合った人員に合わせていきます。しかし福祉の世界は違います。「20人いないと事業が成り立たない」そういう判断が加わってくるわけです。しかし20人集めたところで、例えば半数を遊ばせておくわけにはいかない。そういう現場の苦悩もあるわけですよね。

一般に企業の世界では、高付加価値の労働は○であって、低付加価値の労働は×です。(薄利多売形式云々の問題は別として。)しかし福祉の世界ではそう単純にいかない部分もあるわけです。

ちょっと見て行きましょう。(経費等の問題は割愛して考えます。)

(A)指導員1名と作業員2名で年収300万円の事業を行う。

(B)指導員1名と作業員10名で年収300万円の事業を行う。

企業の価値観だけで見た場合、(A)は(B)よりもいい事業です。作業員一人当たりの収入も(A)の方が断然いいわけです。

企業的価値観における判断としては、(B)から(A)に切り替えていくべきということになるのでしょう。

でも(A)の事業だけで、利用者=作業者20人抱えるということは、指導員を10人用意しなければならないということになるわけですよね。(単純化していえばの話ですけれど。)そうすると、就労支援事業活動収支としては、高工賃を払えて○なわけですけど、福祉事業活動収支としては人件費コストが高騰し、×なわけです。「就労~収支」で事業が潰れることはありませんが、「福祉~収支」如何では、事業も潰れます。

 むしろ(B)のような、指導員一人で多くの作業員を見ることができる作業を有しているということは、その後の事業展開がしやすくなります。新たな事業を起こそうとした場合、いきなり指導員一人がたくさんの人数を見きれるわけはありません。自分自身も試行錯誤なわけですから、少人数と集中的に関わりながらしばらくは作業を進めていくことになります。作業を提供できず、待たせるだけになってしまっている人を目の前に5~6人並べて「さあ、新しいことを始めるぞ」といってもそれがいかに難しいことかは現場の人間なら分かりますよね。まず全員に満遍なく作業を提供できる背景を作りつつ、指導員1名と少数の作業員で新たなことに取り組めるという環境づくりも実は大事な時もあるのです。そして軌道に乗ったときに大きく全体をシフトチェンジしていくことになるわけですよね。そういう意味で、ベースになる作業のあり方ということも就労系福祉事業の展開においては大切になってくるわけです。ひとりでたくさんの人数を集約できる作業を持っていることは、その付加価値の如何に関わらず、その事業所の強みとなるわけです。ただしそこに安住していたら、次の展開は見えてきません。

 この辺の現場ならではの事情は、企業的価値観だけでは見えてきません。

就労系福祉事業の成功事例として、「Aという作業からBという作業に(私が)切り替えて、事業は大きく前進した」という報告をよく聞きます。しかし忘れてはならないことは、Aという作業があり、そこに多くの作業員を集約できる背景が前提としてあったからこそ、Bという作業の導入とその切り替えがうまくいったということです。だから単純に非生産的(と思われる)事業を片っ端から否定して回ることがいいことではないのです。

それらの企業的価値観との違いは、<生産性・必要人員→労働者人員>という企業と、<必要労働者人員→生産性>という就労系事業のベクトルの違いを根本にしているのです。

これらは一例に過ぎないのですが、基本的には<○人対△人>の概念を事業所の経営分析の際の基準のひとつにすると、いろいろなことが見えてきます。

今日はこれでおしまいです。明日も仕事。本当は息子と釣りに行きたかったなあ。有給休暇を取ったあなたを責めているわけじゃないですよ。たぶん、きっと。

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その1

福祉の世界の特殊性のひとつとして、作業従事者の給料(工賃)と、職業指導員の給料の出所が基本的には違うということがあります。前者は事業収入で「就労支援の事業の会計処理の基準」では、就労支援事業活動による収支として取り扱われる領域です。後者は公費(+利用者個人負担金)を中心とした展開の中での経費となります。福祉事業活動による収支として取り扱われます。

事業収益の拡大が、職業指導員の質的量的拡充に反映しづらく、また事業種別・利用者数などによって福祉事業活動における収支の規模が概ね定められてしまう。事業収益を希求しながらも、それがマンパワーの拡充につながりにくいという点。その点が特殊といえば特殊なわけです。設備投資の規模をいくら大きくしても、労働集約性は基本的には高く、マンパワーが事業収支の規模を大きく左右しながらも、その逆はない。半透膜のような関係になっているわけです。

そのような特殊性に踏まえるならば、こんなデータもその事業所(の可能性)を知る上で貴重になってくるように思います。エンゲル係数みたいなものですが。

福祉事業活動における収支において、人件費のうち、実際に作業に携わる人の経費割合はどのくらいなのか。その割合が高ければ高いほど、今後の事業展開を進めやすいということができます。あえて人数にしないのは「常勤1名雇用するか、パート2名雇用するか」は現場判断となるからです。そしてそれは作業の中味などによっても規定されます。

逆から言えば、作業に携わらない人にかかる経費をどう抑えるかということも大切なわけです。そうすると、経理・事務の効率化をどう実現するかという問題にもなってきます。経理・事務は、生き物である事業のレントゲン写真のように、その内部を正確に映し出さなくてはなりません。とはいえ、それが非効率的で、そこに経費を多く投じなければならない状況では、生産事業そのものの展開は難しくなってくるということです。経理の外部委託の場合も同様です。

ソフトウェアの開発も含めて、経理・事務負担の軽減を考案することも、各事業所が生産事業活動を推進する上での貴重な触媒になりえるということです。もちろん、事務を簡素化しすぎて管理者や現場の人にとって事業の動きが見えづらくなるようでは困ります。そのへんのサジ加減は、現場の意見を取り入れながら進めないといけない分野かと思います。

こんな感じで書いていこうかな?

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基礎理論?

<授産事業、就労支援事業、福祉作業所等における「工賃倍増計画」策定について>

しばらくちょっと固い記事でいこうかと思います。「育児」から入ってこられた方、「ペット」から入ってこられた方には申し訳ありませんが、ちょっと難しい話が続くかもしれません。

平成19年度から全国の都道府県で「工賃倍増計画支援事業」が実施され、授産施設・就労系事業所等の工賃水準を引き上げるための具体的事業が動き出しました。各都道府県で、工賃倍増計画実施事業が展開され、千葉県においても「計画策定ワーキングチーム」が発足しました。

全国の具体的事業を見ても、あるいは厚生労働省の示す具体例などを見ても、「経営コンサルタントの派遣」や施設長クラスの研修・セミナーなどが中心になっていくようです。経営コンサルタントの派遣は、ビジネス理論(マーケティングや営業の手法・理論)に基づく経営分析や提案などがなされ、各種研修・セミナーなどではそれに加えて先駆的事例などの検討が行われるようです。

厚生労働省の打ち出す「工賃倍増計画支援事業」においては、一定の予算措置もなされ、実践とその結果が求められるものであるからして、より実践的な事業として遂行されていくものだと思います。そして事業の性格上そうあるべきだとも思います。

しかし私が最近考えているのは、本来ならばもう少し基礎理論の解明に力を入れるべきだろうな、ということです。企業経営に関する諸理論に基づいて授産・就労系諸事業の工賃向上戦略を解明することはとても有意義なことだとは思います。しかしなお、その独自性により残るべき問題というものが存在し、そこを残したまま理論の輸入(企業→福祉)に頼っていては残るべき問題が依然取り残され、実体論的には福祉・就労系事業の二極化が進むだけのような気がします。もちろんそれはそれでいいのかもしれませんが、やはりなお「工賃」に関する全体を包み込む基礎理論というものの解明が必要なように思われます。

経済政策論や社会政策論等の分野においても、外国から輸入された理論をそのまま適用しても、あまり結果には結びつきません。それぞれの政治経済的あるいは宗教・文化的な歴史的特殊性に踏まえて理論は再構築させなければ、思うような結果は得られないのです。

外来生物が在来種を駆逐するという事例は、この場合の例えにはならないかな?

話を戻して。

「就労支援の事業の会計処理の基準」というものが厚生労働省より示され、とりわけ原価計算をきっちり行えるような会計処理方法が示されました。私なりにその「目玉」と思うのは、「就労支援事業製造原価明細表」、「販売費及び一般管理費明細表」の作成を「就労支援事業別事業活動収支内訳表」の明細表として位置づけるという部分であります。「製造原価」と「販売費及び一般管理費」(「販管費」といいます。)を明確に区分するということ。福祉の現場は、やや製造原価に倒して考えがちな部分があったのですが、「販管費」の概念上の整理によって、マーケティング理論を受け止める土壌が会計処理の分野においても整理されたと認識しています。現場の会計は、しばらくはやや混乱もするかと思いますが、長い目で見たとき、きっとプラスに作用すると個人的には思っています。

簡単に言えば、作ることだけでなく売ることの価値基準を会計処理上でも正しく計るべきだということでしょう。「売ること」からの逆規定を受けない「作ること」は、本当の意味での「作ること」にはなっていなかったということです。あくまでも会計処理の基準・方法に関してのことですが、マーケティング理論を(就労系)福祉の地平において土着化させるための基礎工事は行われたということです。

ただしそれはマーケティング理論に関してのことであり、それは(就労系)福祉事業における工賃向上に関する基礎理論の中の一部を構成するものに過ぎません。

(これ以上、会計の話を引っ張ると9割の方が引いてしまうので、止めます。)

基礎理論の解明が重要だといいながら、もちろん私にそんな力はないし、私の任務だとも思っていません。ただし、現場のど真ん中の視点として「この辺の理論領域を解明すべき」という提案ならできるかな、と思います。

それを多少シリーズ化して、小出しにしてみようかな、と思いました。読者数が減れば、その時点で辞めようかな(笑)。

おっ、仕事が舞い込んできた。日曜の夜だというのに。ではまた。

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2007年7月11日 (水)

しんちゃん

週末になると、うちの子供たちは「しんちゃんのところに行く~」と大騒ぎ。「しんちゃん」はもともと自閉的傾向が強く、強度行動障害があって、それゆえ車椅子にもなってしまった。そして今はまだ長期リハビリ入院をしている。その病院に行って、しんちゃんに大好きな車のことを聞いたり、車椅子に乗せてもらうのがうちの子供たちの週末の決まりごとになってしまったようだ。

先週末「親父は(疲れているから)また今度にしようよ」と言ったのだが、泣いて抵抗するので、連れて行った。しんちゃんと特に会話をたくさんするわけではなく、たまにベッドに登ってトランポリンのようにして遊ぼうとして私に怒られたり、車椅子に乗って病院の廊下を走ったりして怒られたり、まあそんな感じでした。

また先日、タケシ君のうちに私が行くとき、長男もついてきた。タケシ君のお父さんの体調についての話やその他今後の生活のことなどの話をする。タケシ君は近くで手を振って飛び跳ねていたり、ワーワーをやっている。そんなタケシ君に、長男が近づいたり話しかけたりしている。

「やっぱり、こういう子(知的障害者)をいつも見ているから平気なのね。」とお母さん。普通の子ならびっくりしたり恐がったりするらしい。

確かにうちの子たちは慣れてるよな。我が家にも最近家族になったおじさん(知的障害者)がいるし、いつも一緒に遊んでいるし。作業所の旅行にもついてくるし。

うちの子たちにとって、こういうちょっと変わったおじさんは、近い目線で遊んでくれるから好きなのだろう。

障害者のホームステイみたいな事業ってあったら面白いのにな。

さあ、今日も仕事。今日はソフトボールクラブの練習もあります。週末あの全国レベルの強豪、習志野高校女子ソフトボール部との交流試合もあります。

いつも本気で試合をしてくれるので、もちろん30-0とかで負けてしまうのですが、なんとなくすがすがしいのです。本気でやってくれるのは、うれしいことだし、試合をしてくれる彼女たちも、障害を持つ人たちとの付き合い方(普通に接する)をこういう機会で感じてくれればなおいい。

じゃあまた。

しんちゃん、今週は忙しくて顔出せないかもしれないけど、病院で騒いだりするなよ!騒いだら、看護師さんからすぐに報告もらうようになっているんだからな!

看護師さん、リハビリの先生。すみませんが、よろしく。しんちゃんがもう少し元気になったら、カラオケにいきましょう。

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2007年7月 9日 (月)

脱落

昨日の記事、主要箇所(足立区の事件の背景の説明)が脱落しており、修正を加えました。9日朝以前に読まれた方は、もう一度お読みください。

先日、法人会の懇親会があり、「㈱ふくしねっと工房」として参加、アピールをしてきました。でも全然ダメ! どうも企業のほうの集まりに参加すると、どうも肩身の狭い思いというか、他人の土俵で相撲を取っている感じでドーンとできません。腰も低くなっています。<善意を求めているのでなく、パートナーシップを求めているのだ>と自分に言い聞かせ、参加しているのですけどね。

もちろんいい話のいくつかは頂戴しましたけどね。小さく頂き大きく育てるといった感じの。

「ふくしねっと工房」のお取引先の福祉事業者様もこれを読まれていると思いますが、少々お待ちくださいね。いい話が来るかもしれません。でもいつもそうですが、<いい話>をすべてのお取引先にご提供できないのが心苦しいです。

会社を始めて、もちろんいいことはたくさんありますが、福祉事業者のみなさまにお待たせしている時間はなんとも苦しい限りです。仕事を待つ間、障害を持つ方々はその場所でどう過ごしているのかなあと思うと、「ごめんね~」という感じ。顔出して喜んでくれると、本当に嬉しいのですけどね。

家族からは「もう少し儲かる会社にすれば」というご意見も頂戴することはありますが、聞く耳持たずです。

「工賃向上」? そういえば、オレ自分でやってるじゃん。別に公費投入されなくても、ささやかだけど、結果を残しているじゃん。

ではまた。

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2007年7月 8日 (日)

足立区学力テストの件と「工賃倍増計画」、および鼻くそについて

 東京都足立区のある小学校で、区独自の学力テストの集計から障害児3名の答案用紙を除外していたというニュースがありました。また他にも点数を上げるための不正もあるようです。(7月8日朝刊)

 この事実に対して、良心的な障害福祉関係者は憤慨するでしょうし、良心的な学校教育関係者は「起こるべくして起こった」と落胆するでしょう。

 このブログは、障害福祉関係者の読者が割合的に多いと思いますので、ちょっと説明します。

 足立区教育委員会は、昨年10月、学力テストの結果によって、小学校計72校、中学校計37校をそれぞれ4段階にランク分けし、最大約500万円から約200万円とする方針を打ち出しました。(一度「撤回」発言もあったが、事実上その方針で新年度を迎えました。)
 これほどまでして足立区が「学力向上」をめざしている直接の動機としては、東京都と区が実施している学力テストの結果が23区中23位、つまり最下位だったことがあげられます。「予算」という「エサ」と「脅迫」により、各校を競争させることにより学力アップを目指そうというやり方です。そして朝日新聞の報道では、小学生の間でも「エリート校」「バカ学校」という言葉が飛び交っている状況にあるようです。おそらく報道されたこの小学校以外も、似たり寄ったりのことがあるのでしょう。

 そして「平均点向上」のための奥の手として、障害児3名を集計対象から外すという行動に出たのでしょう。また、その他にも「学力テスト平均点向上」のためのさまざまな不正が行われていた可能性も指摘されています。

 東京都が、もし東京都の学力テスト平均点を出すときに、最下位の足立区を集計から外していたとしたらどう思うのでしょうかね。それと同じことを平気でしているのですよね。

 この学校の先生方、学校関係者、足立区の教育関係者の資質に問題があるわけではないでしょう。「何としても学力を上げたい」という思いがいつの間にか一人歩きして、当初の目的を見失い、手っ取り早い平均点アップの方法に手を染めたということでしょうか。「平均点」の向上ためには、弱者の切捨てがもっとも手っ取り早いのでしょう。

 千葉県には「障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県作り条例」(「障害者差別条例」)があります。行政の方々も、福祉関係者も、この全国唯一の条例に誇りを持っている方が多く、私自身も半分は(*1)「いいことだ」と思っています。

 (*1)「半分は」とつけたのは、本来はこんな条例を必要としない社会こそが望ましいからです。障害者の差別に関する条例が必要な社会というものは、障害者(等)の差別が根強く存在している社会ということになります。「健常者への差別を禁止する」とか「男性への差別を禁止する」とかという条例はないでしょう?そのような条例が生まれる物質的根拠が存在しないからです。行政の方々は条例によって差別をなくす・減らしていくという考え方をするのは当然ですが、地域福祉の現場からすれば、逆の視点も必要です。差別を生み出す社会的背景を地域福祉の実践によって改善していくことこそが地域福祉の視点です。「そんな条例、うちにはいらないよ」という社会こそが望ましいのです。そういう社会でないこと自体が、我々地域福祉の実践家の反省材料なのです。そういう条例が必要だったという現実自体が我々に反省を要求しているのですよ。条例成立に大騒ぎしているみなさん、足元をどうぞご覧下さい。みなさんの回りをどうぞご覧下さい。そこに見えるものが条例を必要とする物質的根拠です。そしてそこがあなたのフィールドです。あなたの責任領域です。そこに立ち返りましょうよ。

 お~っと、話を大きく戻します。千葉県にそのような条例があるというところに戻しますね。このような条例がある千葉県なのだから、足立区の小学校のような事件がなければいいな、と思いますが、心配もあります。ましてや「教育」の世界でなく「福祉」の世界ではこのような<弱者切捨て→平均点向上>のような馬鹿げたことはないだろうと思いたいのですが、これもまた心配があります。

 千葉県は、さきのような条例をもつ県です。「障害者福祉先進県」を目指すことは当然のことでしょう。他方千葉県は、障害者施設・作業所の「平均工賃」が全国で下位に甘んじています。そこを改善したいと思うことも当然のことでしょう。そこに国から「工賃倍増計画」に関する予算が降ってきた。(1000万~3000万?)「よしっ」と思うのも当然でしょう。

 でもその「よしっ」という気持ちは、ある意味先ほどの足立区の教育行政とそのブレーンの教育関係者の「よしっ」という気持ちと大きな違いはないはずです。足立区も都内最下位の「平均学力」を引き上げたいという強い思いで改革に乗り出したのだからです。

 要は、そこから足を踏み外さないよう自己点検が必要だということです。弱者切捨てで「平均学力」を表面上押し上げようとした足立区と同じ道を歩んではいけないということです。それが本来の「障害者差別条例」を持つ千葉県のスタンスであるべきです。

 「平均学力」も「平均工賃」も、ある意味同じ落とし穴があります。「何のため?」という視点を失うと、一人歩きしてしまう恐れのある数値だということです。本来中味のない数字のはずの「平均」を実体化してしまうと、とても危険だということです。弱者切捨てにつながりやすいということです。「教育」の世界でどうかということは私の専門外なのでコメントはしませんが、少なくとも「福祉」の世界の絶対的な前提は、弱者の視点に立つことです。実体化された「平均」は、常に弱者に冷たい眼差しをおくります。

 簡単な話、生産性の低い障害者を入れれば、その施設の平均工賃は下がります。切り捨てれば平均工賃は上がります。

県の単位で考えた時、何の作業をしていいかさえ分からず困っている施設・作業所を無視して、強者を育成・養成しても、県の「平均工賃」は上がります。これまで行く場所もなく自宅や病院、入所施設から外に出ることがあまりできなかった多くの障害者が「まずは外に出ること。地域の中で日中活動の場をもつこと。」を目指して、作業所などが急速に増えたとしたら、県の平均工賃は下がります。意地悪な言い方をすれば、「まずは日中の居場所を作りたい」という場所を、その地域からなくしてしまえば、その分「平均工賃」は上がるでしょう。極端な話、「工賃倍増」は簡単な話です。

 「平均工賃」なんて、そんな数字でしかないのです。しかしそれが実体化され、ある意味魔力を持つと、とんだ間違いを起こす恐れもあるということです。

 とりわけ千葉県の福祉行政が「工賃向上」を考えるなら、何よりもまずボトムアップを考えるべきです。数字の話は好きではないのだけれど、あえて言うならば「工賃1万円」に届かない施設・作業所に対する支援をまずは考えるべきだと思うし、数字的な結果が欲しいのならば、「工賃1万円」の達成数(割合ではない)を大切にすべきです。

 現場の感覚からして、障害者の給料、1万円に届くかどうかは大きな意味を持つような気がします。初めて「給料1万円」を、障害を持つ仲間が持ち帰った時の親の顔を見れば分かります。施設・作業所に「障害を持つわが子の面倒を見てもらっている」という意識が、「この子、働いているんだ」に変わるのが、この「1万円」だと思うのです。(一般論ですけれど。)「行ってらっしゃい。頑張って。」と送り出される関係が築ける線が、一般的にはこの「1万円」にあると思います。

 障害福祉サービス費の自己負担分を除くならば、交通費・食費などの利用諸経費(支出)を超えるためにも、この1万円という線が大切なように思います。

 もちろん「1万円でいい」と言っているわけではありませんし、事実私の作業所ではその「1万円」の線は楽に超えていますが、「これでは足りない。もっと増やしてあげたい」と日々考えています。

 しかし県全体の施策を考えるならば、「働いている」という実感の沸く最低ラインとしてのこの「1万円」を達成するための施策を打つことが、もっとも千葉県らしいことのはずです。「草の根的」な地道な活動を重要視した施策が、本来は望ましいと思われます。

 別な視点から考えます。障害者が差別される際の根源的な背景は、社会そのものの根源的な存立条件が生産諸関係にあるということです。つまりその社会の生産諸関係の様態が社会の形態・様相・意識を根源から決定しているということであり、障害者差別が生まれる物質的な根拠は、障害者がその社会における社会的生産諸関係からはみ出していることにあります。そしてそのことがまた、障害者就労に関する福祉行政が存立する根拠でもあります。今の社会の生産様式・生産諸関係からはみ出された障害者たちにいかに就労の場を提供し、障害者差別が生み出される社会的生産関係における矛盾点を補完するか、それが就労に関する障害者福祉行政の立脚点であるはずです。

 

 「福祉」はあくまで社会にとっては「補完」であって、「補完」は矛盾を前提としています。矛盾に盲目な「補完」はありえません。矛盾に立脚しつつも、同時に現実肯定的・追認的な立場で「補完」は成り立つのです。ただし「補完」は矛盾の縮小をこそ願う立場であって、矛盾の拡大再生産に対しては断固たる拒否の立場をとるべきであります。社会の矛盾を、障害者福祉の世界で拡大再生産させることだけはしてはいけないのです。そのような意味でも、障害を持つ人が社会的生産関係の中でそれなりの役割を果たせるという実感の、文字通り最低サインを「1万円」に置くならば、そのラインにこだわりを持ってもいいのではないでしょうか。

もっとも、事実として作業所等には障害の程度・種別などによって「最低1万円」さえもかなり厳しい仲間たちがいることも事実です。しかしその彼らの数百円・数千円の労働の価値を、価値としてしっかり受け止めてあげることももうひとつ大切な視点になりますが、これは現場の人間の考える領域です。

話が大きく蛇行をしています。

さて、どうまとめましょうか。

このブログの記事、誰が何に使っても構いません。私、友野剛行の執筆です。やたらと「鼻くそ」だの「うんこ」だのと連発するブログを書いております。

鳥取の方々も読んでいただいてますよね? どう思います?

ではまた。

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2007年7月 1日 (日)

アオムシを囲む人々

日付が変わろうとしている。それでもアオムシは頑張っている。わき腹からまたひとつ寄生蜂のマユを出した。そして体液が染み出している。おそらくこれが最後の寄生蜂のマユだろう。

長男の風歌は言った。「アオムシ、頑張ってる。だけど蝶にはもうなれない。」それ以上は語らない。慎重に言葉を選ぼうとして、そして結局選ばれた言葉はない。それが沈黙。

妻は金魚たちの世話をした後、アオムシのかごに目をやる。金魚たちはあの重い病気を乗り越えて、今日妻の判断で、やっと淡水に戻った。アオムシをしばらく眺めて、子供たちを連れて二階に上がっていった。

わたしの母が、深夜起きてきた。「アオムシ、きっと痛いんだと思う。どのくらい痛いんだろう。このまま生かせておくのがかわいそう。末期がんの人を見てきた。ただ痛いだけの状態がかわいそうな気がする。いっそのこと楽にしてあげたほうがいいんじゃないか、と思う」。そういい残して部屋に帰っていった。反論はできなかった。でも<命>って、痛いとか痛くないとか、展望があるとかないとか、そんなものの向こう側にあるような気もする。

明日からまた仕事頑張ろうと思う。

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アオムシ、ありがとう。

先週末、我が家の家族になった「トモノアオムシ」が、1週間猛烈に食べ続け、やがて虫かごの屋根によじ登り、さなぎになる準備に入ったことは、前回までのブログで書きました。長男・風歌(ふうた)やその友達のことちゃんが、とても大切にそのアオムシのさなぎの準備を眺めていました。

先日の朝、アオムシの様子がおかしい。へんな白い糸がわき腹からたくさん出てきて、アオムシは明らかに苦しんでいます。私は妻と風歌に「アオムシの病気について調べておいて」と言い残し、仕事に出ました。その日の仕事は忙しく、帰りは深夜になってしまいました。翌朝風歌に「アオムシはどうなった?」と聞きました。

「アオムシはねぇ…。食べられちゃったの。」重い口を開いて風歌が答えました。私にはまったく理解のできない答え。虫かごの中にいたのに、何で食べられちゃうの?

妻が説明してくれました。以下、妻の答えのすべてです。

アオムシは、寄生蜂(アオムシコマユバチ)に寄生されていた。この寄生蜂は、アオムシに卵を産み付けられ、幼虫となり、アオムシの体内で食い荒らし成長し、アオムシがさなぎになる準備に入った時を見計らって外に出てくる。そして出てきてすぐマユになる。およそ30匹。さなぎになるために天井で準備をしていたアオムシにその30個のマユが固まっている。すでにその蜂の30個のマユの方が、アオムシよりも大きくなっている。

トモノアオムシは、それでも生きている。食い荒らされた下半身はもう動かなくなっているが、体中に張り付いたマユから何とか逃れようと頭を動かし続けている。

アオムシは、蝶になることもさなぎになることも、もうできない。大好物のキャベツを5日間食べ続け、あんなに大きくなって、そしてさなぎになる準備に入った。しかしそれは、寄生蜂のために食べ続け、寄生蜂のために天井に登っただけだった。

「アオムシは、お腹は痛かったと思うけど、蝶になろうとして天井に登ったんだよね」と妻。「きっとそうだよね」と私。

風歌も「蝶になったらサヨナラするんだ」と語っていた。いい<サヨナラ>を待ち望んでいた。

あまりにも残酷な話だ。風歌は「腹ペコアオムシ」のアニメDVDを何度も見て、最後に蝶になる姿を繰り返し見ている。我が家のアオムシのことはもう何も言わない。

私は、寄生蜂のマユを鬼のような形相で全部壊し、アオムシを天井からキャベツの葉っぱの上に戻した。体はもう半分の大きさになってしまっている。さなぎになる準備をしていたアオムシだから、もうキャベツは食べないのかもしれない。実際食べてくれない。もちろん食べたとしても、さなぎにはなれないだろうし、そもそも食べた物が消化されてウンチになることもないだろう。

でもあんなに大好きだったキャベツの場所に、どうしても戻してあげたかった。一口でもいいから食べて欲しいな。

最後は本当に自分のために。

でも私が殺した寄生蜂のマユも、蜂の赤ちゃんです。蜂も可愛い赤ちゃんを産むために、卵を産みつけたのです。そう考えると、何がなんだか分からなくなってきた。妻もこういいました。

「自然は恐いね。でも私たちが生きていることだって、このアオムシと寄生蜂の関係とあまり変わらないんだよね。いろんな命の犠牲の上で生きてるんだよね。」

「そうだね」と私。

今、このブログを書いている途中、下に降りてアオムシを見に玄関に行った。そこには妻がいた。お互い顔を見合わせ、ちょっと哀しく笑った。アオムシはまだ生きている。

アオムシ、ありがとう。今度生まれてきたら、きれいなモンシロチョウになってね。

そして寄生蜂のマユたち、ごめんなさい。あなたたちを殺すことはなかったかもしれません。

B0025008_22102251 これがアオムシと寄生蜂の写真です。

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