« 明日更新! | トップページ | ぼくが福祉の仕事をはじめた理由 »

2007年1月18日 (木)

大阪の事件について

このニュースが飛び込んできて、私はしばらくの間、完全に判断停止に追い込まれてしまった。以下、産経新聞より一部省略かつ修正の後抜粋。

大阪府八尾市の近鉄八尾駅前の歩道橋で17日、大阪市平野区の西田璃音(りおん)ちゃん(3)が男に投げ落とされ重傷を負った事件で、殺人未遂容疑で逮捕された八尾市桜ケ丘、障害者作業所勤務、Y容疑者(41)が「仕事がイヤで、何か悪いことをすれば仕事場に戻らなくていいと思った」と供述していることが18日、八尾署の調べで分かった。同署は、Y容疑者が仕事でイライラしていたところに、たまたま璃音ちゃんが通りかかり、突発的に投げ落とした可能性が高いとみている。
 調べなどによると、Y容疑者は17日午前10時ごろから同市内にある作業所でクッキーの袋詰めの作業を行い、昼食のあと午後1時ごろから、同駅前でメンバーらとクッキーを販売。現場は人通りが多く子供も多数通りかかったが、約1時間半経過した午後2時半ごろに突然、璃音ちゃんを投げ落とした。
 調べに対しY容疑者は「仕事のストレスがたまっていて、むしゃくしゃしていた」などと供述していたが、「何か悪いことをすれば仕事に戻らなくていいと思った」と話していることも新たに判明。同署は、ふだんから仕事に対する不満があり、イライラしているところに、璃音ちゃんが通りかかり、突発的に投げ落とした可能性が高いとみている。

 同署によると、Y容疑者は落ち着いた様子で「悪いことをした」と反省の弁も述べている。精神科に通院治療中だが、質問の受け答えもしっかりしているという。
 一方、璃音ちゃんは依然、病院の集中治療室で治療を受けているという。
 社会福祉法人O会のK事務局長の話 「事件が起きたことは本当に残念。しかし、知的障害があるから事件を起こしたのではないことと、多くの知的障害者がまじめな人であるということを分かってほしい。こうした事件によって障害に対するマイナスイメージばかりが先行することが心配。知的障害者を常時、見守り続けることは現実的ではないし、そうしたからといって本人の自立につながるとはいえず、悩ましい。一人一人に対しての支援のスタイルが異なり、パターン化できないのも難しい」
 
 このニュースを、ふたりの<私>が同時に見ていた。一人は障害者の福祉作業所の所長としての私。もう一人は3歳児の父親としての私。
 所長としての私は、この事件に対するマスコミや世間の論調が、やれ「障害者を野放しにするな」とか「危険人物を街に出すな」とかと騒ぎ立てることをまずは直感した。一生懸命まじめに地域で働いている多くの障害を持つ仲間たちへの風当たりが急速に強まることを危惧した。大阪のその作業所(小規模通所授産施設)ではクッキーを作っていたという。その仲間たちはどうなってしまうのか。仕事が続けられるか、居場所は維持できるのか・・・。
 もうひとりの璃音ちゃんと同じ3歳児をもつ父親としては、一言でいって、「絶対許せない」。Y被告だけでなく、職員も施設も法人も、全部許せない。公開する文章には書けない言葉が頭をよぎる。そして「所長としての私」が作業所の存続を心配している、そういう「私」が許せない。
 「父親としての私」が怒りを持っていることに対して、「所長としての私」は、なんとも言葉がない。「こうした事件によって障害者に対するマイナスイメージばかりが先行するのが心配」というK事務局長の気持ちも十分に分かるが、今そんな言葉を被害者の親が聞いたら、はらわたが煮えくり返るどころの騒ぎじゃない。
 一日ずっと、整理できない感情を抱えていた。いまこうして書いているうちに何らかの答えが出るかとも期待していたが、それもどうやらダメなようだ。もう一度それぞれの「自分」に戻って考えてみる。
 
「所長としての私」として。
 私はこれまで、「障害者の就労支援」という仕事に携わってきた。人間として、できる部分・できない部分、そしていい部分・悪い部分、全部抱えた人間として、つまり我々と同じ一個の人間として、他者とふれあい認められて生きていくこと、何らかの形で他者に「必要だ」といわれる環境の中で生きていくこと、そういう人生を、あいつにもこいつにも送ってもらいたい、そんな思いで「就労支援」の仕事をしてきた。そして「障害者の就職」といっても、みんながみんな善意のかたまりのような所に送り込むわけではない。偏見・差別、それを前提とした社会に送り込むわけだ。ある意味、偏見や差別はあって当たり前(肯定するわけではないが。)、それを跳ね返す根性と実際の仕事ぶりを身につけさせて「お前が乗り越えろ!」と背中を押すのが私の仕事だ。
 健常者と同じ失敗をしても「やっぱり障害者だから」といわれてしまう。健常者と同じだけ手を抜いても周りの反感を買う。だから基準を厳しく設定するしかないのだ。「そこまで厳しくしなくても」とよく言われてきた。私を鬼のように思っている人たちも多いはずだ。でも本当に彼らが地域の中で差別や偏見を乗り越えて人から「必要だ」といわれて生きていくためには、基準を厳しく設定するしかないのだ。「自閉症」の仲間たちの独り言やこだわり、同じ言葉の繰り返しなどを「障害だから仕方がない」という捉え方をして、半端な優しさで受け入れてしまうことは、その人と社会の間に壁を作ってしまうことにしかならない。だから厳しく接する。世間が嫌がることに対しては、「○○障害だから」ということで済ませてしまうのではなく、それはいけないことなのだということを伝え続けていく。いいことはいい、悪いことは悪い、その基準を明確に伝えていく。それが私の考え方だ。
 こういう事件が起こり、世間が「だから障害者は・・・」という風潮を作ると、たいてい障害者施設陣営は「犯罪発生率は、(精神)障害者よりも健常者の方が高い」というデータをもって反論する。
 おそらくそのデータは正しいと思う。数多くの「障害者」と接してきて、同時にそれよりはるかに多い「健常者」と接してきて、そのデータは実感として正しいとは思う。
 だが、その一歩先のことを我々は考えなければいけないのだ。そういう風潮があっという間に作られてしまうそういう世間、あるいは社会。その中で障害を持つ仲間が日常的に地域で暮らすことを模索するという地域福祉の世界は、いかに「障害」をできない理由にせず、彼らに社会人としてのルールを厳格に伝えていけるか、それを貫けるか、そういう世界だということだ。差別や偏見を前提とした地域社会で「地域福祉」を推進するということは、それ相応の厳しさが関係にないとダメだということだ。そういう厳しさとその裏にある「地域の中で生きようよ」という思い、それを相手に伝えられて初めて「さあ、地域に出よう」ということになるのだ。我々にとっての教訓はその点にあるのだと考える。
 そしてもうひとつ考えるべきことは、「地域福祉」を進める以上、「100%何もない」ということはありえないということ。たとえ「99%大丈夫」と思える場面においても、残りの1%を予測して、それへの危機管理の意識と対応準備をどれだけできるのか、それが大切だということ。そしてさらには、「それでも100%はありえない」という冷厳な事実を自覚すること。腹をすえるしかないということ。
さて、「父親としての私」に戻ります。
 この感情は、やはり言葉にできません。うちの長男と同じ頃産まれて、同じように親は喜び泣いて、そして同じように夢を見ていたはずです。早く元気になって欲しい、それを祈るばかりです。
 以下はうちの長男が産まれた日に私が書いた詩(日記)です。親としての感情を推測してください。
    
     ほんとうに風ちゃんがうまれたら
    
    ほんとうに風ちゃんがうまれたら
    どんなだろうって思っていたら
    ほんとうに風ちゃんがうまれた
    はじめまして 風歌(ふうた)くん
    でもぼくは 君のことを
    ずっと前から 知っていたよ
    ところで 君のほうは?
 

|

« 明日更新! | トップページ | ぼくが福祉の仕事をはじめた理由 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/118028/4982224

この記事へのトラックバック一覧です: 大阪の事件について:

» 応研 社会福祉法人 勘定票(貸方、ページプリンタ用) ZOH-FK014【受発注(お取... [通信販売]
社会福祉法人 勘定票(貸方、ページプリンタ用) [続きを読む]

受信: 2007年1月21日 (日) 16時26分

« 明日更新! | トップページ | ぼくが福祉の仕事をはじめた理由 »