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2006年9月 9日 (土)

父親・仕事・組織そしてサボりについて

9月になりました。障害者自立支援法、その日中活動分野での活動開始は10月です。あと1ヶ月弱となりました。10月からの参入を予定されている事業者の方々は準備に大変忙しいことと思います。

そこで今回の記事は、うちの長男の「幼稚園見学会」です。前の記事で書きましたように、うちの長男はホームページで行きたい幼稚園を探していました。妻がその中のいくつかに見学の予約を入れておいたのです。

「オレも行くから」

「えっ?行かれるの?仕事大丈夫?」

「行かれるかどうかじゃなくて、オレは行くの!」

訪問先のいくつかの幼稚園で、長男は夢中。みんなが裸足でグランドで体操をしていたら「ふうたも~」と靴を脱いでグランドに走ってしまう。慌ててつかまえると「ふうたも幼稚園行きたいなあ。だって友達いっぱい欲しいんだもん。おうちに帰らない。」・・・駄々をこねます。この気持ちに応えなきゃなぁ、と思いました。幼稚園・保育園・在宅、考える際の基準は、妻のゆとり・家計のこと・教育のこと、そういう視点でばかり話し合っていたように思います。やはり息子の視点を第一にしたいものです。

さて、話を少し仕事の方にもっていきます。私も「福祉」の世界の人間として、やはり同じように<人>を支え<人>と関わる仕事としての保育や教育の分野には、やはり単なる「父親」から離れた部分で興味を持ちます。普段はお子さんを託される立場に立っていますが、今は息子を託すという立場で幼稚園や園長先生、先生や子供たちを見ています。自分が自然に目が行くところや質問するところ、それは逆に普段自分が見られたり質問されることです。素直に「面白いなあ」と思いました。いくつかを回って、これほどまでにそれぞれが違うのか、と驚きもしました。

理事長や園長先生、こういう偉い立場の人の言うことは、すべて立派なことです。それぞれの考え方の違いはあれ、すべて納得させられることです。そして違いがあるとすれば、その偉い人のいうことが、本当に末端まで染み込んでいるのか、それとも言葉だけなのかということです。幼稚園や保育園などの、従業員が数十人程度の小さい組織は大企業と違って、この偉い人が本当にいい仕事をしているのかどうかで全体の色が変わってくるのだと感じました。きっと福祉の世界もそうなのでしょう。

 ある幼稚園は子供が見学に来ても目も合わさない。逆にうちの子に興味を持って話しかけてきた児童が注意されている。・・・この際だからはっきり言いますが、ちゃんとしたあいさつもできない先生たち。ひとりふたりならどこの組織にもこういう人はいると解釈できますが、そうではない。

 もうひとつの幼稚園は、誰もが自然にあいさつをしてくる。私にでなく息子にです。見学者である息子が輪に加わろうとすると、子供たちも先生も、普通に受け入れてくれている。先生も考え方をしっかり持っていて、偉い人の言葉だけでなく、その先生がここの幼稚園の考え方・方針について自信を持って説明できる。「うちは、幼稚園では○○が大切だと考えています。△△については小学校に入ってからで十分だと考えています。だからうちでは~はしません。」こういう説明がきっちりできるのです。

こんなにも違うのかと思いました。もちろんこの後者の幼稚園は、もう定員いっぱいで入るのは困難なのですが・・・。

この違いは何なのでしょうか?先生がその幼稚園に就職するときにすでに資質の差があったのでしょうか。「福祉」の世界からの類推ですが、資質の差ではありません。入ってきてから差がつくのです。どちらのタイプの幼稚園も、偉い人の言葉を散々聞かされて仕事をしていることには変わりないでしょう。ならば何が違うのか?

「言葉」というものには、<正しい・間違っている>という客観的な判断の他に、<聞ける・聞けない>という主観的な判断があります。おそらくそこが違うんだと思います。偉い人が正しいと思ったこと、そして客観的にもそれは正しいとされることを懸命に訴えても、「聞けないよ」という場合があります。そういう場合、周りはたいていシラけて聞いています。というか、流しています。働く人(先生)も生活がかかっていますから、流すしかないのです。ケンカをして損をするのは自分ですから。

大きな組織の場合には、多くの場合偉い人はある意味言葉だけの存在です。地位やら名誉やら過去の実績やら、そんなものをバックに従えた「言葉」だけの存在です。少なくとも末端から見ればそうです。その人の実際の仕事ぶりなど言葉の裏側にあるものについてはあまり見えません。

しかし小さな組織はそうではありません。すべて丸見えです。小さい組織では上に立つ者は丸裸ということです。自分で陰部を隠しているつもりであっても、そうなのです。(表現が汚いけど。) ここに<聞ける・聞けない>の違いがあるのです。

聞けない言葉は隅々には染み込んでいかない。シラけた雰囲気が蔓延します。はっきりいって、そういう雰囲気を感じた幼稚園もありました。

「父親」から離れて「仕事」に戻って考えたとき、私もこんな分析をしている場合ではありません。私も「丸裸」の一人だからです。大切なことは「言葉」だけでなく、背中で伝えていかなくてはなりません。それは私なりに肝に銘じていることでもあります。若い人たちの仕事のレベルを上げていくことも私の仕事ですが、それ以上に私自身が向上心を持って、常に先を進んでいなければいけません。10の仕事を相手に要求したのなら、自分は裏で20の仕事をしていなければなりません。裏で20の仕事をして、それが表となって表れるのが15ぐらいでしょうか。表に出た部分だけでも、仕事を要求した相手よりも上をいっていなければなりません。そうじゃなきゃ、「言葉」が軽くなるでしょ? 軽くなってしまった言葉は、いくら地位や名誉のレベルを上げてもその軽さは変わりません。

私は自分の仕事の評価を、私と一緒に働く人たちの目で測るようにしています。「聞けない」という目をされたときには、私が仕事をしていないと考えるのです。働くみんなの目が生きているときには(そのみんなの仕事の結果がどうであれ)私の仕事としては○です。

さて問題。このブログによって、金曜日私が仕事をサボって幼稚園の見学会に行ったことがみんなにバレてしまいました。果たして来週から私の言葉は、「聞ける」ものなのか「聞けない」ものなのか、これが大きな問題です。とりあえず土・日頑張ることをアピールしておきましたが、さあどうでしょう。

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