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2006年9月17日 (日)

じじいのため息と回想

障害者の福祉作業所。人と関わる仕事。たくさんの若い人たちと一緒に仕事をしてきて、感じることがあります。

福祉の原点とは相手のニーズに耳を傾け、その実現のための手助けをすること、これに尽きます。しかしこの「ニーズに耳を傾ける」ということは意外と難しいことのようです。もちろん私自身がちゃんとできているというわけではありません。それこそ失敗と反省の繰り返しの中で実践をしているわけだし、答えのない答えを探し求める過程そのものこそが答えであるとしかいいようのない実践に身を置いているわけですが、そんな私から見ても「どう難しいのか、それを理解することが難しい」とさえ思ってしまうことが多いのです。最近ずっと考えている難問のひとつです。

「なんか、内容が固いわ。楽しい記事がいいわ。」と思った人は、昨日の記事にジャンプしてください。お~っと、あなたはダメ!ちゃんと読みなさい!

「ニーズに耳を傾ける」という行為、自分の実践に照らし合わせてみて、この行為を別な形で表現し直すなら、「自分の(相手への)思い・希望と、相手自身の思い・要求のつながりを模索する」ということでしょうか。つまり自分の価値観・判断・(相手への)思いというものがまず前提としてなければ、それは模索できないのです。「受容的交流」「あるがままを受け止める」、言葉ではいろいろ聞いているはずなのですが、受け止める側の自分自身が明確な価値意識を持ってそこに立っていないと、受け止めることはできないのです。風船が風を受け止められますか?

自分が相手に対して「こうなって欲しい」「こうなったらいいだろうな」「こうならないと、たいへんだぞ」・・・そういう価値意識で相手に向き合う。その上で相手の即時的な要求をしっかりと聞いて、こちらの価値意識とつながる地平において要求への回答を出す。聞く力は大切。しかし「聞く力」とは自分の価値意識を捨て去ることでなく、それを作り上げることです。どうやらその辺が難しいことのようです。聞こうとすると、自分の価値判断が消えて、ただ相手に振り回されることになり、それでは良くないと思うと今度は相手を無視した一方的な押し付けになってしまうのです。そして特に最近は聞いているつもりで実際は相手に振り回されてしまうタイプの人が多いようです。振り回されている状況を献身的に耐え続けることが「福祉の実践」であると勘違いするケースも多いのではないでしょうか。

要するに、自分が相手のビジョンを持てないということ、相手の生活や人生を(ある意味で勝手に)構想する力が、これまでの人生の中で形成されてないということなのだと思います。そんなものは「福祉」云々の前に、学生時代などの友達関係の中で自然と身につけてくるべきものだと私は考えていました。人と知り合い深く関係を築くということは、時に相手と対立するかもしれない価値観を明確にもって、それを互いにぶつけ合いながら相手を受容し受け止めていくことだと考えています。「オレは(オレのために)アンタにはこうあって欲しい」「オレは(アンタのために)アンタにはこうあって欲しい」この2つの基準をもってぶつかり合うことだと考えています。「考えている」というよりも、経験を言葉にするとそういうことになるのです。そのあたりの経験のギャップを感じることが多いのです。

相手のビジョンを持てないということは、実のところ自分自身の現実的なビジョンも持てないということになるでしょう。自分のこれからの人生設計や構想が実にフワフワしたものであるように思えることが多いです。地に足が着いていないということでしょうか。

分かれ道に出くわすと常に楽な道を選ぶ。それでいてその道のゴールを高く描く。<坂道は嫌いだけどあの山に登りたい>そういっている感じがします。また逆のパターンで、自分のこの先をほとんど描けていないのにスケジュールばかり詰め込んで、自分の時間に隙間を作らない。自室のソファーでぼんやりと「この先、私はどう生きよう」と考える時間もないのではないか、と心配になるケースもあります。

親の教育のあり方についても、日々考えさせられます。

携帯文化、メール文化の功罪についても考えさせられます。

また受験勉強とは今思い出してもくだらないものだし、当時も私はくだらなさを感じていました。それでも一日十数時間机にかじりついていたり、嫌な教科でも逃げずに向かったり、答えが分からない問題を何時間も考え抜いたりという行為そのものは今プラスになっていると思います。つまらないものに向き合いしがみつくためには、それなりの目的意識が自分の中にないとできることではありません。だから目的意識を失わないことに必死だったように思います。今目の前にあるつまらないものと、その先にある目的意識を絶えず交信させていくことが必要だったように思います。英文法も運動方程式も因数分解も、今の生活には何も役に立っていませんが、それでもあの日々は無駄になっていないように思います。部活も同様です。

しかし今それを振り返っても、難問の答えは見えてきませんね。でもヒントになるとすれば、「過去の経験はやり遂げたものに限って、自分の血や肉になる」ということでしょうか。今福祉の実践の中で、「やり遂げた」という経験をどう提供するか、それが大事なのかもしれません。「やり遂げた」・・・その経験の中で、自分の価値意識を育ててもらう。そういうことから始める必要があるのかもしれません。

これが難問に対する、現時点での答えです。

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コメント

 とっても共感しました。そうやって言いたかったのです!!
 学校に週2回きているカウンセラーは「ただ聞くだけ」の立場。それなのに、専門家の意見だとか言って担任に指示する。ふざけんじゃねー!!私は私の相手への想いをもって戦っているんだ!!と思ってました。裏切られても、信じて頑張るしかない。自分のために。相手のために。結局、その子のうそに振り回されて最後は学校に丸投げしやがった。許せない。
 表現が下品でごめんなさい。
 集団で成功する体験、させたいです。でもできてないです。私も頑張ります。

投稿: まっきえもん | 2006年9月18日 (月) 14時17分

「まっきえもん」さん。はじめまして。・・・いや、正直に言います。「お久しぶり!」。あれから10年、私は相変わらずこの世界で一直線に生きています。10年・・・ということは「まっきえもん」さんも教師になって長い月日を送ったんですね。
同じ<人>と関わる仕事。遠い東日本からエールを送ります。大切なものは「相手への想い」。ときにはそれをリセットして鏡に映る自分を確かめる必要があるとはいえ、そべてはその「相手への想い」に尽きるということがこの10年の私の結論です。クールで繊細で頭がいい、そんな「まっきえもん」さんからきた「下品」な投稿を、月日の流れの深さを感じながら読ませていただきました。強くなったんだね。お前も頑張れよ!

投稿: しょちょー | 2006年9月22日 (金) 00時09分

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