« 弱者の立場、そこに送り出す側の論理 | トップページ | ご無沙汰しています。 »

2006年8月14日 (月)

遠い憧れについて他、3話

軟弱で四角いものが転がると、ただそれだけで傷がつく。硬質で四角いものが転がると、ただそれだけで周りを傷をつける。

これが人間だとして、あるいは筋肉のかたまりだとして。

力を入れて思いっきり固くなって転がれば周りを傷つけ、それをせずに転がれば自分が傷つく。

どっちも嫌だから、四角いものは丸いものに憧れる。丸いものはいくら転がっても傷つかないんだから。

だが丸いものも、実はひそかに、四角いものに憧れる。その憧れは、たとえ小さくとも深いものとなる。それは遠い憧れだからだ。

四角いものは転がっていれば、いずれ丸くなるか、少なくともその希望だけは維持できる。しかし丸いものがいくら転がっても、四角いものには戻れない。

<そういう登場人物で、第1話>人を大切にするということ

丸いものでも、かなりの打撃を受ければ、割れてしまい、丸いものでなくなることもある。しかしそれはもう転がることはできない。半球になってしまったものは、もはやサイコロのようにさえ、転がることはできない。だから決して壊してはいけない。

<第2話>働くということ

転がり方の鈍くなった丸いものは、ゆがんだ丸いものに形を変えてしまうことはある。放置されたゴムボール。そうなってから、また転がり始めようとしても、転がる先を自分でコントロールできない。自分でまだ丸いと思っている場合はさらに困ったことに、正しい道を進んでいるつもりで、道を誤ってしまう。だから丸くなったものは、常に転がっていないといけない。働くとはそういうことかもしれない。

<第3話>遠い憧れについて

丸くなったものは、遠い憧れで四角いものに寄り添うことができる。もう決してなれないその四角いものに、時に傷つけられながらも。

私が今の福祉作業所で働き始めたのは10年前。放浪癖のある障害者がいた。言葉はなく、人を寄せ付けようとしない。自分の主張は、文字を書いて伝えることはできる。文字はあるのに言葉はなかった。作業所をサボっては、電車やバスで旅に出る。駅のホーム、広い公園、その他風を感じられる場所で風を感じながら、腹の底から大声を出してその風に応えていた。夜になればデパ地下の食品売り場の試食コーナーで食べ歩き。販売員にとっては、話しかければ自分の手を噛んで威嚇し、かといって人に危害を加えるわけではない彼を前にして、通報するまでの気持ちにはならない。だから彼は腹いっぱい食べ歩いて、公園に向かう。公園ではベンチに新聞を敷いてベッドにする。星を眺めて眠りにつく。

そんな彼の行動を知り尽くしながら、私たちは必死に彼を探し続けるが、見つけられる割合は低かった。彼は常に裏をかいて行動していた。デパートも公園も、彼の行動範囲には星の数ほどあるんだから。

足を棒にして探し続ける私は、心配と悔しさとそしてもうひとつ、ひそかな憧れを感じていたことを否定する気はない。

あんなふうに自由気ままに暮らしていけたら、どんなにいいだろうな。そう思うと、さらに必死で探し続けていた。

丸いものはひそかに四角いものに憧れる。そんな感情がたとえわずかでもなかったら、あのトラブルメーカーたちの集結の場・福祉作業所で働き続けることはできないんだろうな。

話はこれでおしまい。

|

« 弱者の立場、そこに送り出す側の論理 | トップページ | ご無沙汰しています。 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/118028/3052286

この記事へのトラックバック一覧です: 遠い憧れについて他、3話:

« 弱者の立場、そこに送り出す側の論理 | トップページ | ご無沙汰しています。 »