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2006年8月 1日 (火)

「この一歩」のための関わり方

私の福祉作業所に最近通い始めた仲間がいます。彼のことはずいぶん前から知っていました。ずいぶん前から「うちにおいでよ」と声をかけていました。でも実際に通うようになったのは最近のことです。

彼は長いこと、いわゆる引きこもりの生活をしていました。長い冬のような生活から、やっと春に一歩近づいてきたのです。

彼の弟は私がやっているもう一つの福祉作業所に通っています。養護学校卒業後、すぐに来たので、すぐに定着することができました。明るく元気に働いています。福祉作業所や授産施設の障害者の給料、その全国平均の何倍も弟は手にしています。それなりに頑張っているからです。しかしそのことは逆に兄弟のこれまでのバランスを崩し、家庭の状態は必ずしもいい方向に向かっているわけではありませんでした。

もともと仕事をする力があったのはお兄さん。弟は何でもできるお兄さんをある面で尊敬しているようでした。そのお兄さんは養護学校卒業後、先生方の支援で就職。しかしその後フォローする人がいなく、挫折。学校から直接就職していった人の場合、この挫折後のケアがなかなかできないのです。(先生方には是非この点を考えていただきたい。先生方の大切にする「就職率」の数字の裏側で、いったいどれだけの人が彼のような状態になってきたのかということです。)

お兄さんは何度かの挫折を経験し、だんだん社会から遠ざかり、いわゆる引きこもりの生活に入ってしまっていたのでした。そして当初から就職でなくこちらの福祉作業所の利用を決めていた弟は、むしろだんだんと社会生活が広がっていく。

お兄さんが弟の足を引っ張るような行動に出ることは、ある意味何の不思議もないことです。

あまりにも重い最初の一歩。この一歩をお兄さんが踏み出すことは本人にとっても弟にとっても何よりも大切なこと。何度か本人やご家族と話をしたり、家まで迎えに行ったりしながら、何とか作業所に通えるようになりました。通ってきてからの彼は実に明るく前向きで、人と話せるのが楽しくて仕方がないといった状態でした。もちろん「働く」という意識はまだまだ先のことですが、通う習慣が少しずつ身についてきました。

毎日汗水流して働くお兄さん、仕事後は私たちをつかまえて延々とおしゃべり。何時になってもなかなか帰りません。一度帰ってもまた戻ってきてしまいます。私の懐の狭さをさらけ出すようで恥ずかしいことなのですが、ある日私は「もう、いい加減に帰りなさい!」と叱ってしまいました。見る見る表情が変わる彼。というよりも表情が消えていきました。無言で小石を私に投げつけ、家と逆の方向へ走っていきました。

その夜彼は帰宅せず。帰ってきてからも布団にこもってしまいました。私が彼の家に行き布団越しに話しかけても無表情はほとんど動きません。またもとの引きこもり生活に戻ってしまうのでしょうか。

そして今日の朝、他の職員が朝迎えに行き、いろんな話をし何とか連れてくることができました。しかし作業所の入り口の前で立ち止まり固まってしまう。そこから先、無理やり中に入れないように、そして彼のペース・彼の世界に入り込み過ぎないようにその職員に私は指示。この入り口での「一歩」が彼にとっては実に大切だからです。この一歩を自力で踏み出せるかどうかが、とても大事なのです。私たちが本当の意味で関われるのは、この一歩を彼が踏み出せるかどうか、この点に絞られてきます。入り口前の道路でうずくまったり頭を抱えたり・・・。近所の目も気になりますが、それを一番に考えてしまうと失敗する場面です。しばらく中から「入っておいで」と声をかけていた私ですが、約1時間。こちらから彼に向かいました。「これが8月の予定だよ。この日みんなで山登りに行こうかと思うんだけど、一緒に行くよね」と関係ない話題から切り出す私。「8月5日に○○で花火大会があるんだ」と彼。「じゃあそれも行こうか」・・・そんな話をやり取りしている中で彼が切り出してきた。

「あの日、早く帰れって言われて、オレなんか役立たずだからもういらないのかと思って、あの後、行く所なくなっちゃったんだよ。」

「道路でうずくまっているままなら、確かに役立たず(笑)。でも中に入って仕事をしてくれたら大切な仲間だよ。じゃあ、中で待っているから。」と私は中に入っていった。

大切な話は、中に入ってからです。入り口の外で話を聞いてくれるという関係をあまり深く作ってしまうことは、実は彼の大切な「この一歩」を作るためにはマイナスな場合もあるのです。どこで手を差し伸べ、どこで差し伸べた手を一度引っ込めるか、この辺のタイミングは実に大切なことです。手を差し伸べすぎて抱え込んでしまうと、彼の引きこもりの殻を破るための「この一歩」が作れません。逆に手を差し伸べないことには何も始まりません。微妙なタイミングを計るためには明確な基準がいるのです。その基準は作業所の「入り口」です。単なる入り口に過ぎないのですが、彼の心の中においては、とても重くそして明確に引かれた線がそこにはあるのです。私は手を引いて彼を中に入れることはしませんでした。それは彼の心の問題は彼にしか解決できないからです。中で涼しい顔して待っていました。しかし他の障害を持つ仲間に私は耳打ち。「中に入って一緒に仕事しようって話しかけなよ。君に任せるから。」・・・彼女はスーッとお兄さんに近づき、「仕事しようよ」・・・。彼もすんなり入ってきました。私も含め、中にいる人は誰も大騒ぎせず、彼がいるという当たり前の空間を当たり前に受け入れて、そして仕事に戻っていきました。後で彼女にはこっそり「さすが!」と持ち上げました。

ことさらに笑顔を振りまいたり持ち上げたりという余計なことは一切せず、普通な環境を普通に作りました。私がそういう態度でしたから、みんなも何となくそういう普通の態度で彼に臨んでいました。

この「入り口」を入ってきた仲間は、それぞれみんな大切な仲間。みんな役割があり、その役割をこなす中で、仲間が必要であることと自分が必要な存在であることを、理屈ぬきで肌で感じる。そういう場所です。

このような関わり方の線、悪く言えば「駆け引き」、これは教科書で身につくものではありません。一切は経験と、その経験を栄養に変える心の持ち方、角度を変えれば「目の前の仲間への想い」、そういうところから身についていくのだと思っています。

その人のこれまでの生き方とこれからの生き方。その接点に私たちは向き合っている。それら全部を「今」という容器に押し込んで、それと向き合うのが小さな福祉作業所の毎日の実践なのです。

みんな分かったかな? 分かんねえかな(笑)?

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