« 私のスランプ脱出法 | トップページ | 本当の地域福祉とは? »

2006年7月17日 (月)

ちょっと一息

仕事のほうがちょっと煮詰まってきたので、ここでひとつ先日の息子たちとのエピソードを。

先日、息子たち(3歳、1歳)を連れて虫取り網をもって、近くの山と畑に虫取りに出かけた。坊主頭で虫取り網を持って山を走る長男を見て、通りすがりの家族が「いいねえ。坊主頭と虫取り網。最近あまり見なくなった光景だよね」と噂している。

長男は山で虫を見つけると、家に帰ってすぐに昆虫図鑑でその日に出会った虫を検索する習慣がある。そしてこの習慣は、実に1歳から続けている。3歳になった現在昆虫にはかなり詳しくなっている。しかも1歳の頃家にいて死んでしまった昆虫たちのことまでしっかりと覚えている。「あっタマムシ。これ死んじゃったね」とか。ダンゴムシ、カメムシ、テントウムシ、クモ・・・そういうこじんまりとした虫が結構好きなのだ。

話は脱線します。2歳になったばかりの時、うちの金魚のピッポが死んでしまった。ハンカチに乗せられ横たわっている金魚を見て2歳の長男はこういった。

「ピッポねんねしちゃったね。お庭でバイバイね。タマムシとクワガタといっしょだね。虫(金魚も虫のひとつのようだ)は、みんな目あいてねんねするね。(だから)また帰ってくるね。」

まだ簡単なひらがなしか読めないのに、小さい頃から図鑑ばかり読んでいた長男。あまり理論ばかりの頭でっかちにしたくない(もう十分頭でっかちだが)ので、地に足の着いたしっかりした感受性だけは育てていきたいと思い、わが夫婦は息子たちが望む虫なら、どんな虫でも飼うようにしている。我が家には犬、猫、カラス、カメなど10数匹のペットがいるが、長生きするその子たちとは別に<生まれて・愛されて・死んでいく>という命のサイクルを虫たちを通じて感じることは大切だと思っている。妻も虫は苦手だったが、今では息子たちと虫を観察している。

さて、虫取りに戻るがその日はいい収穫がなかった。畑のわき道を通って帰ろうとしたとき、畑で見かけたのは10cmほどの真っ黒なアオムシ。次男はキャーキャー言ってアオムシを触る。「つぶれちゃうよ!」 長男はしばらくじっと見つめて一言。

「あれ?このアオムシ、まだ蝶にならないねえ」・・・そうか!図鑑やDVDではアオムシはすぐに蝶になる。現実のアオムシはいくらじっと見ていても、なかなか蝶にならない。

「じゃあ、連れて帰ろう。きっといつかきれいな蝶になるよ」私はそういって、この真っ黒なアオムシを連れて帰った。長男は大興奮。帰ってすぐに「ばあちゃん!アオムシ採ってきたよ!きっと蝶になるよ!」「すごいねえ」とばあちゃん。さらに続けて「この虫は硬い葉っぱしか食べないんだよ」と。

このばあちゃん、昆虫、花、鳥など山に関することなら何でも知っている。このまま老いて死んでいくのがもったいない。脳ミソからハードディスクに情報を保存しておきたいと思うような人だ。そんなばあちゃんが私を呼んでこういった。

「あれは、蝶にならないよ。ブドウなどによくいる幼虫で、すごい蛾になるよ。あの子がみたらきっとショックを受けるよ。」

私は「ブドウ」「蛾の幼虫」でGOOGLE検索。・・・・・いた!・・・・・ばあちゃんの言うとおり、「すごい蛾」だ。「スズメガ」の一種で「セスジスズメ」といい、ノブドウなどを食べている。

0816sesuzisuzume 困った。蛾になったらどうしよう。いや、その前に図鑑で事実を知ってしまうこともありうる。しかもこの幼虫ものすごい勢いで葉っぱを食べている。

息子たちは大興奮。葉っぱを食べるこの来客に見とれている。「決めた!今日中にさよならしよう。息子たちが目を離しているうちに逃がしてあげよう」・・・父親の決心は固かった。職場の職員や得意先から何本か電話。しかしその内容を覚えていないほど、息子たちが目を離すタイミングを計るのに私の意識は集中していた。

「今だ!」・・・私は虫かごを持って玄関から飛び出した。静かな夜、虫かごをもった40前のオッサンが一目散に走っている。昼間、息子たちが虫取り網を持って走っている情緒あふれる光景とはあまりにも対照的なものであったに違いない。

まず一番近くの畑に解放した。「ごめんね」。蝶なら愛せるが蛾なら愛せないという自分の価値観に理不尽なものを抱えたままのさよなら。心は小さく痛んだ。しかしホッとした気持ちを隠すことなく家路に向かおうとしたその時、ばあちゃんの言葉が頭をよぎった。

「この虫は硬い葉っぱしか食べないんだよ」

今解放したこの葉っぱで大丈夫だろうか?・・・葉っぱならきっと食べるさ。・・・でもそういう私だって食べる葉っぱと食べない葉っぱがあるよな。自分がもし松などの針葉樹もレタスも同じ葉っぱだから毎日松を食べろといわれたら困るよな。・・・私は今自分の目線と自分の物差しだけで相手を計っているんじゃないか?福祉の道に生きる者として、そういう人にはなりたくないはずじゃないのか?

玄関先まで戻ってきていたが、私はUターンした。「やはり彼がもといた場所に戻してあげるべきだ」・・・また走ったさ。ところが解放したはずの場所に彼がいない。夜の闇にまぎれてしまった。「きっとこの葉っぱでもよかったということだろう」「いやいや、食べられる葉っぱを求めて探しているんじゃないか」「でもここからあの畑は遠すぎる。たどり着く前に死んでしまうよ」・・・「見つけた!」・・・2度目の「ごめんね」。

彼はもとの家(畑)に戻っていった。農家の人に見つかるなよ。私は家に帰り息子たちに説明。「もう夜になったから、アオムシは家に帰ったよ」。「そうか。帰ったのね。」そういって納得する長男。でも空っぽになった虫かごを見て涙を見せるもぐっとこらえていた。

あの涙は何だったのか。単なる来客の帰宅が寂しかっただけなのか。それとももっと深いところで何かを感じていたのか。私には分からない。きっと私が3歳の頃だったら、分かっていたかもしれない。でももう、ここがこれだけさびついているから、分からないのです。おしまい。

|

« 私のスランプ脱出法 | トップページ | 本当の地域福祉とは? »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/118028/2689714

この記事へのトラックバック一覧です: ちょっと一息:

« 私のスランプ脱出法 | トップページ | 本当の地域福祉とは? »